編集直記
 
 
 
 
 ある晴れた日曜日、金沢市小立野台の崖下に拠点を構えていた某貧乏劇団が、浅野川界隈に引越してきた。彼等は郷土作家作品の朗読劇を行っており、朗読劇の出前という面白い趣向をこらした劇団だと巷では噂となっていた。団員の二人は旅芸人気取りで意気揚々と活動しているのであったが、公演活動だけでは食べて行けないので、鷺森春樹は工場の作業員として、高橋千代子は郵便配達員の他、冠婚葬祭の司会などの仕事をしていた。二束の草鞋を履いたこの二人の旅芸人が浅野川界隈に拠点を構えることとなったのは、成り行きと言おうかひらめきと言おうか、これまでの出張公演活動に本腰入れて、思い切って劇場を構えることで金沢の演劇シーンに刺激を与えることが出来ないかと、浅野川大橋の橋上でふいに思いついたことがきっかけとなったのであった。


 その翌月彼らは、県民市民を対象に朗読講座を開講し、地元ゆかりの作家作品を、朗読を通じて親しもうという、全国的にも稀に見る朗読小屋を開設した。貧乏劇団時代にも増して、報道各社はこの朗読小屋を取り上げ、評判は評判を呼び、続々と講座に通う人も増えて行った。今では五十数名という大所帯は、一人一人が講座受講生という立場で参加するのではなく、常設の朗読小屋を運営する立場に立って郷土文学作品を内外に発信していこうという有志団体へと成長しようとしている。部員である彼ら五十数名のうち男性は五名のみで、大半が女性であった。初年度前期は、柔軟体操や呼吸訓練、歩行訓練など演劇学校さながらの稽古を行っていたのが、後期は春の公演に向けての稽古で基本訓練がおろそかとなって行き、それぞれが月二度の講座の合い間に自主稽古を積み、互いに切磋琢磨するという流動的な活動を行ってきた。その間も部員たちは地域商店街での買い物や飲食を続けて、地域と密着した団体としてその存在感を高めていったのであった。


 そして今春、そんな懸命な活動を続けてきた朗読小屋が、その真価を問われるお披露目公演なるものを七日間に渡り開催した。総観客数は予想をはるかに超える455名となり、入場チケットの半券は三百円分の金券として地域経済へ還元されるため、この公演の収益は地域経済へ若干の影響を与えたのではなかろうか。自身の稽古のほかに公演前の諸準備や、直前までパンフレットの修正、再製本作業に追われるという波乱を乗り越え、打上げの大宴会では一年の緊張から解き放たれ、お互いの健闘を讃え合い、部員一同、来期へ向けて思いをはせたのであった。


 鷺森春樹は、波打つ浅野川の川面を眺め、深い路地から流れてくる三味の音に心弾ませながら、公演後の大宴会でややほてった体を石塀にもたせかけていた。春風そよぐ日中とは違い、夜の浅野川は、茶屋の明かりがそそぐ石畳へひんやりと凛々しい川風を運び、川面はゆるやかに川波を立てて下流から上流へ逆流しているような錯覚を起こさせる。赤く蕾んだ桜木に自身の散り落ちる場所を問われて、春樹はなす術もなくそこに立ち尽くすのであった。
 その時、黒く光る川面から得体の知れない生き物が鳴き声と共に飛び立った。
「カラスか・・・いや違う、鷺だ」

 春樹は驚嘆のつぶやきと共に、浅野川大橋を照らす電灯の中に鷺の姿を認めた。背は緑黒色で翼は灰色、後頭部に二、三本の細長い白羽のある美しい五位鷺であった。
「あれは、五位鷺だ・・・なぜこんな夜更けに・・・」
 五位鷺は、はるか頭上を越えて茶屋街の空に飛んでいった。春樹は、その空の彼方に目を向けながら、晩秋の宵に、ここで夢子が話していたことを思い出していた。


 その日の夕方、稽古を終えた七人の女子部員たちと一緒に近くのおでん屋「長助」へ行った。稽古後の心地よい疲労は冷えたビールに癒され、旬の山菜などをつつきながら、彼女たちは金沢の文学について雑談を交えて話し合っていた。
「鏡花の作品に描かれている女性は、みんな魅力的な女性ばかりね・・・」
「そうねえ」
「白糸は、とても豪快できっぷのいい女性なんだけど、欣弥が伏木へ旅立つと決めた時の、揺れる女心なんかはとっても女性らしくて・・・白糸は可愛い人なのよねえ」
「そうよね、勝気な女ほど実は艶っぽい」
「まるで私そのものだわ、ふふっ」
「あなたが可愛いのは、みんな分かってるんだけどね」
「あら、あなただって素敵よお」
「そうかしら」
「稽古の時、あなたの声を聞いてるとぞくぞくっとくるわあ」
「ぞくぞくって何よ」
「鏡花の怪奇小説なんかぴったりよ」
「やだ、それどういう意味?」
「だからね、あなた時々低音で朗読しているときあるでしょ」
「ええ、前回はちょっと意識してやってみたんだけど」
「あの時の響きがとても良くって、天守物語のお姫様役なんて素敵よ」
「あらそう・・・ありがと。でも天守物語は怪奇ものじゃなくて、幻想ものだと思ってたけど・・・」
「いいえ怪奇ものよ」
「幻想ものよ、失礼しちゃうわ」
「まあ、そういうことにしときましょ」

 部員たちは富子と咲子の会話に微笑んで、今日の稽古の出来不出来を話し合ったりして和やかな時を過ごしていた。春樹は、かたわらのテレビから流れるニュース番組の話題に、ここのママと二言三言の言葉を交わした。長助は安くてうまいという評判で、会社帰りの男達や、近所の住人たちや家族連れが気軽に立ち寄る庶民的な店であった。
「でもさあ、鏡花の芝居は東京でしか見られないっていうのは寂しいわね・・・」
「そうねえ、映画ならいくつかあるけど鏡花の芝居はこっちじゃほとんど見れないわね」
「私、市川雷蔵の大ファンよ」
「私も好き。あの鋭い目つきがたまんないのよねえ」
「鏡花の歌行燈見たことある?」
「ええ?なになに?」
「う・た・あ・ん・ど・ん」
「鏡花の作品よお」
「へええ」
「とにかく、その映画は市川雷蔵と山本富士子が・・・」
「私も見たことがあるわ。鏡花フェスティバルのときに見に行ったことがある」
「へえ」
「わたしゃ感動して泣いた泣いた・・・」
「あの山本富士子の愛らしさは、日本女性の鏡ね」
「そうそう。私達も現代女性の鏡にならなきゃね、ねえ春ちゃん」
「え?」
「え、じゃないわよ、何よ聞いてなかったの?」
「いやいや、聞いてた聞いてた」
「じゃなんですぐ答えないのよ」
「咲子さんこわあい・・・」
「なによ」
「春ちゃん、山本富士子って分かる?」
「もちろん。歌行燈は僕も泣いた泣いた。あの作品は珠玉の名作やね」
「ねえ、そうでしょそうでしょ?」
「うんうんうんうん」

「でも、金沢では鏡花の愛好家は多いけど、広く一般人の県民が日常的に鏡花作品に親しんでるとは思えないわね私達を含めて。だからこそ私達のように、朗読を通じて触れていくっていうことには意義があるわね」
「そうね、大げさに言うと、倶楽部に来なかったら、生涯、鏡花作品を朗読することもなかったかも知れないしね」
「私なんか以前は鏡花なんて難しくって分かんないって感じでいたんだけど、ある日ね、突然目覚めちゃったのよ」
「目覚めた?」
「うん。こないだね、今稽古している滝の白糸の原文を読んでみたいと思って、倶楽部の本棚から鏡花全集を借りていったのよ」
「ほう」
「家に帰って、ダーリンや子猫たちに食事をさせて、風呂入って、さあ読もうと枕元で読んでみたの。そしたらね、だんだん眠くなってきて、無意識に同じところばっかり読み返して、ぜんぜん頭に入ってこないの。」
「それは鏡花幻想だわ」
「でね、結局そのまま鏡花全集を枕にして寝てしまったんだけど、右手の指が痛くって痛くって朝うっすらと目を覚ますと、本に指を挟んだまま寝ていたの」
「ふむふむ」
「倶楽部の所有物だから枕にしちゃって申し訳なかったんだけど、その私の指を挟んでいるページをゆっくり開いてみたらね、昨夜途中まで読んでいた義血侠血のページではなくて、活人形、という作品のページだったのよ」
「へええ」
「い・き・に・ん・ぎょ・う、なんて気持ち悪いわね」
「で、寝ぼけ眼をこらしてそのページを見ると・・・無残やなお藤は呼吸も絶え絶えに、紅顔蒼白く変わりつつ、呵責の苦痛に堪えざりけむ。ひい、殺して下さい殺して。と、死を決したる乙女の心・・・ええとそれから・・・よしや此のまま打ち殺すとも・・・はたと倒れて正体なし」
「いやあ、こりゃたたりじゃ、たたりじゃあ」
「その瞬間、私は思ったの・・・殺して殺してと、倒れて正体が無くなった乙女が、ふと朝方、鏡花の本を抱いて目を覚ました・・・」

「はあ・・・」
「こりゃやばいわ」
「何がやばいのよ。偶然とはいえ、私の指が鏡花の一節を指差したまま眠っていたのよ。まるで私は鏡花の世界の生き映しのような気分だったわよ」
「うわあ」
「それは本物だわ」
「でしょでしょ!」
「かもねかもね」
「だから私は、あの日から鏡花に目覚めた乙女として生きているの」
「ありゃあ」
「そりゃすごいわ」
「でも、鏡花の作品を手にしただけで、単なる偶然が偶然でないような気になってしまうのも鏡花の妖しい魅力かもね」
「現世とあの世の区別がつかなくなってしまうなんて素敵だわ」
「ええ?」
「あんた、きっとそれは半分棺桶に足入れてしもうとるから、そう感じるんやわ」
「もう!いじわる!」
 女子部員たちは、弓子の抗議を笑い飛ばした。

「あの、私そろそろ帰ります・・・」
 賑やかな会話のタイミングを見計らって、夢子が席を立たった。
「あら、もう帰るの?」
「ええ、そろそろお爺ちゃんが帰って来るので」
「ああ、あなたのところの小父様は、デイサービス行ってるの?」
「ええ、そうなんです」
「それなら早く帰って、いろいろやんなきゃいけないわね」
「あなたも大変ねえ」
「いえいえ、じゃこれで失礼します」
「おつかれさま。また再来週会おうね」
「ええ、じゃあおつかれさまでした」
 夢子はやや寂しげな表情をして、店の湯気が染み込んだ茶褐色の引戸を開けて店を出て行った。

「あら春ちゃん。ビールが空っぽよ。おかわりする?今日はお姉さん達に任せてどんどんのみなさい」
「いやあ、そんなそんな・・・」
「なに言ってんのよ、今日はとことん飲みましょうね」
「あら咲ちゃん、今日はえらい元気やねえ」
「あらそう?私はいつも元気よ」
「それじゃ僕、そろそろお酒にしようかな」
「ああいいわねえ、飲みましょ飲みましょ」
「飲もう飲もう」
「あたしゃ遠慮するわ」
「私は焼酎のお湯割りを飲もうかな。ママ、私お湯割りにしてえ、梅干は小さいので」
「あいよ」
「それじゃ、熱燗をとりあえず二合ね」
「はいはい、コップはいくついるん?」
「じゃ、三つかな」
「あいよ」
「私は冷たいウーロン茶がいいわ」
「あなた今日はおとなしいわね」
「なによ、私はいつもおとなしいわよ」
 弓子が口先をとがらせて抗議していた。春樹は弓子をなだめ、それぞれのコップに酒を注ぎ、乾杯の音頭をとった。
「それじゃあ、倶楽部の益々の発展を願って乾杯!」
「かんぱ〜い!」

 秋の宵の口は賑やかな嬌声を包み込み穏やかに暮れていった。長助を後にした女子部員たちは、互いに声を掛け合って帰って行った。春樹はそんな部員たちの後姿を見送ると、少しふらついた足取りで裏小路を抜けて主計町への石段を下りていった。
 この石段は、旧下新町の通りから主計町茶屋街へ下りていく近道となっており、観光客の間でよく知られている久保市乙剣宮横の暗がり坂とは違う、もう一つの石段で、地域住民が多く行き来している石段であった。石段の両脇は塀と茶屋家屋に挟まれ、階下へ下るにつれ薄暗くなり、一足ごとに糸が弾き、一足ごとに小笑いが聞こえ、まさに隠れ小路の様相を呈していた。すぐ近くの大通りの雑踏などとは遠くかけ離れた異空間へ、こっそりと忍び込むような感覚が、春樹の心を妙に落ち着かせるのであった。
 春樹は狭い小路を抜けて視界が開ける夜の浅野川の川縁へ出ると、緑黒色の川面へ目をやった。川面は川向こうの「くわのみ湯」の電光看板の光がさし、ささやかに光って揺れている。

「こんばんわ」
「ん?」
 ほろ酔い加減で石塀にもたれている春樹を、同じ石塀の並びから呼びかける声があった。春樹は少し驚いて、茶屋三軒分ほど先にこちらを向いて、やや首をかしげている女性に気付いた。
「ああ、夢子さん」
「さっきはどうも」
「いやいやこちらこそどうも。どうしたのこんなとこで」
「夕涼みしてたの」
「ふうん」
「あれから大分飲んじゃったの?」
「まあ、みんなと一緒に少しだけね。みんなすごいわ」
「すごいとは?」
「昼間は一生懸命稽古して、夜はしっかり腹ごしらえ」
「そうよ、女性は力強い生き物なのよ」
「もう負けそうやったわ」
「なんで?男はしっかりとしとらんといかんよ。何があってもびしっとしとらんと」
「びしっと、ねえ」
「私もねえ、朗読小屋に稽古に通うようになってから、ずいぶん力強くなったのよ」
「へええ」
「少々のことではへこたれなくなったし、まあ、アクセントってこんなに難しいものだとは今まで思ってもみんかったわ」
「ははは」
「私は生まれは大阪なんやけど、父の転勤で西日本を転々としたのよ。だからアクセントがごっちゃにならないように、努めて標準語を話すようにしてたんだけど、どうしても音がとれない言葉があるのよね」
「ええ、なんやなんや」
「そして」
「ん?」
「そしてってあるやろ」
「ああ、ああ」
「あれがどうしても納得いかないの」
「ええ?いつもちゃんと言えてるやん」
「いつもは言えてるんだけど、やっぱり私の人生観っていうか、過ごしてきた環境のためか、どうしても、そして、と頭高に発音しないとしっくりこないのよね」
「ええ、そうなんだあ」
「でも、平板に発音するほうが聞こえがいいんでしょ?」
「うん、そうやねえ」
「だから私は、しっくりこないけど、まあ平板に発音しているわけ」
「へええ、そんなに苦しんでいたとは気付かなかった」
「私は女優だから、ふふ・・・」
「ははっ、そうだね・・・」

 夢子と春樹は、互いに苦笑しながら、底光りする暗い浅野川を見つめた。背後から酔客のざわめきが近づいて来たので、春樹は少し視線を傾けた。酔客達は背広を来たサラリーマン風の一団で、ショルダーバックを片手に賑やかに隠れ小路へ消えていった。春樹が視線を戻すと、夢子は石塀に顔を伏せて泣いていた。
「んっ、どうしたの?」
「・・・・・・」
「夢子さん」
「ごめんなさい。恥ずかしいわ」
「大丈夫?」
「大丈夫大丈夫・・・鷺森さんも毎日毎日大変ね」
「何が?」
「わがままなお姉さん達相手に頑張ってるし」
「いやいや、楽しいよ。まあ、大変って言えば大変だけど、その分作る楽しみ、苦しむ喜びっちゅうもんがあるからね」
「ほんとかなあ?」
「ほんとほんと」
 夢子はいたずらっぽい横顔を見せて、再び川面へ視線を落とした。
「鷺森って、めずらしい名前ね」
「ああ、よく言われる」
「鷺って、この川にもよくいるわよ」
「ええ?ほんと?」
「なんだ、知らないの?鶴のように足が長くって、綺麗な鳥よ」
「ああ、ああ、それなら見たことあるよ。あれが鷺か」
「鷺は樹の上に巣を作っているんだけど、川の小魚を食べに河原にやって来るのよ」
「そうなんだ」
「でも、鷺の中でも、五位鷺という鷺がいて、後頭部にニ、三本細い白羽が生えていて、すっごく綺麗なのよ。だけど夜鳥で、飛ぶときカアカアってカラスのような鳴き声を出しながら飛ぶから、外見のイメージとはちょっと違ってて・・・だけど、そんな五位鷺が私は好き・・・」
 春樹は夢子の横顔を見たいという衝動を抑えて、ただ呆然と浅野川の川面を見つめ続けた。
「幼鳥の頃は体に斑点があって、名前を星五位(ほしごい)っいうのよ」
「ほしごいかあ・・・」
「ね、なんか素敵でしょ?」
「うん、そうだね・・・」
 繁華街の夜空とは違い、浅野川界隈の夜空は大橋のざわめきを飲み込むようにひっそりとしていた。

「じゃあ私、そろそろ帰るわ」
「ああ、そう・・・」
「再来週もお稽古宜しくお願いします」
「こちらこそよろしく」
「じゃあね、おやすみ」
「おやすみ、気をつけて」
「ありがとう」
 夢子は、川沿いの暖かい明かりに照らされた石畳の上を、ゆっくりとゆっくり歩いて行った。春樹はその後姿に悲しげな印象を拭えないまま、夢子の影が小さく消えるまで見送り続けた。


 あの夜、夢子は何を思って泣いていたのか。彼女が語った夜鳥の話にはどんな思いが込められていたのだろう。人々が寝静まる夜中にその美しい羽を広げた五位鷺は、その美しい姿には相応しくないカラスの鳴き声で、夜の浅野川を飛び立っていく。夢子だけではない、朗読小屋に集まる星五位たちは、何に焦がれて泣き続けているのか・・・。春樹は、漆黒の空に流れることのない星の群がひっそりと輝くのをいつまでも見つめていた。

φ(.. )nao

 
     
 
 
 
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表川なおき

 

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