徳田秋聲作「チビの魂」  
 
徳田秋聲記念館学芸員 大木志門
 
     
 

 昭和十年(一九三五)六月一日発行の雑誌「改造」に発表された作品である。
 秋聲晩年の交際相手であった小林政子(東京は小石川白山の芸者で、『縮図』の銀子のモデルとなった女性)が自らの芸者置屋に一人の少女を引き取った顛末を題材にしている。作中で「圭子」とあるのが小林政子、「蓮見」が秋聲をモデルにしている。
 咲子というその少女、年は十歳ながら、これまで育った特殊な環境がそうさせたのか妙にこましゃくれている。「お父さん私を売ったんでしょう」「雛子姉さんも彼氏のところへラブ・レタやる?」などといっぱしの口を聞き、やがて意固地でつむじ曲がりな面が次々と露呈してきて周囲の大人たちを困惑させることになる。

 晩年は政子の元で芸者屋の親父のように暮らしながら執筆をしていたという秋聲の、花柳界に対する観察眼はたしかである。そして、既に三十軒もの家を引き回されてきた不幸な少女・咲子の姿をユーモラスかつ冷酷に追いながら、同時に少女の内面に秘められた「何か一つの魂」のようなものを、温かくすくい上げてみせる。この冷徹と温情が入り交じった人間描写こそ秋聲文学の神髄であり、本作はそのエッセンスを存分に味わえる名編である。

 
 
 
  徳田秋聲作「加賀」  
 
徳田秋聲記念館学芸員 大木志門
 
     
 

 明治四十四年二月の雑誌「新潮」に発表された、郷里金沢を題材にしたエッセイである。秋聲は当時『新世帯』『足迹』で自然主義作家として地位を確かなものとしており、この年の八月からは代表作『黴』を連載開始することになる。辛苦の中で生長したゆえに、これまで金沢を好意的に振りかえることの無かった秋聲だが、ここでは気持の余裕も出て来たせいか、いつになく生き生きと筆が伸びている。

 とりわけ北国の自然の移り変わりと、雪の下で春を待つ人々の心情が瑞々しく描かれており、秋聲の金沢人らしい気分が伝わってくる。また、その自然の影響から来る金沢人の特徴を「物に怺える力がある」「理性的」「消極的」「実効的」「俳諧的」などと表現し、それを「弱いけれど冷たい、華やかだけれど何処か暗い、細かだが何となく荒々しい処もある」泉鏡花の芸術と結びつけてみせる。文学性こそ違え、秋聲が同郷の鏡花の文学をいかに深く理解しようとしていたかが伺えるのである。

 
   
  徳田秋聲作「カナリヤ塚」  
 
徳田秋聲記念館学芸員 大木志門
 
     
 

 明治三十六年八月〜九月の「少年世界」に掲載された児童向け作品である。
 隣同士に住む金持ちの家の一郎と、貧しいけれども心の清らかな愛子が主人公である。愛子が何よりも大事にしているカナリヤを、意地悪な一郎が殺してしまうという事件が描かれ、やがて愛子にはカナリヤの功徳とも言うべき思いがけぬ幸運が訪れる。貧しく心優しい少女が最後には幸せになるという、明治期の児童文学らしい道徳的な読み物であるが、秋聲の弱者への慈しみの心が見て取れる。

 秋聲に児童文学作家のイメージは余りないが、博文館(「少年世界」の版元)に住み込みで勤めていた縁もあり、紅葉門下時代は糊口をしのぐため、かなりの数の児童向け作品を手がけている。「少年世界」は、俗に「日本のアンデルセン」と称される児童文学の開拓者・巌谷小波が主筆を務めていた雑誌である。すなわち秋聲ら若手作家たちは、小波や若松賎子らが切り開いた近代日本の児童文学の地平を下支えしていたということになるが、本作はそのような秋聲の知られざる一面を示す一編である。

 
     
 
(2008年3月15日〜3月23日 2008朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより) 
 
     

 
     
   
   
  泉鏡花作「高野聖」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 冬の夜の敦賀の宿。若狭に帰省する若者が、東海道線の車中で道連れになった旅僧(実は宗門名誉の説教師)から、僧が若い頃の不思議な体験を聞く話。ある夏、僧は飛騨から信州へ抜ける峠越えで人跡絶えた旧道に迷い込み、山蛭の森や蛇の道を抜け、山中の孤家に暮らす妖しい女に出会った。一夜の宿を請うた僧だが、蟇や獣が女にまつわりつくなど不可思議な光景を眼にする。女や身のまわりの世話をする親仁の怪しげな言動を訝しく思いながらも、言葉も身体も不自由でまるで子供のように無垢な夫を優しく世話する女の姿に胸を打たれる僧。翌日、一度は孤家を去ったものの、引き返して女とともに生涯を送ろうと思い定めた僧だが、昨夜の親仁に行き会い、諭される。孤家の女は魔性であり、女に対して煩悩を抱いた者は悉く蟇や獣に変えられる、谷川で女に抱きついた獣たちも、もとは女に邪念を抱いた男たちだというのだ。僧が一散に山道を駆け下りると、孤家と俗世を隔てるように山は激しい驟雨に包まれるのであった。
 鏡花の幻想小説の代表作として知られる作品。鏡花が上京時にたどった山越えの体験や、友人の見聞などが多分に織り込まれた作品としても注目されている。

 
   
  泉鏡花作「外科室」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 東京府下のある病院の外科室。〈予〉は画師としての好奇心から、親友の高峰医学士に頼み、貴船伯爵夫人の手術に立ち会うことになった。親族が見守るなか、粛々と手術の準備は進められるが、夫人は心に秘めたある事をうわ言で口にするのを怖れ、麻酔無しで手術して欲しいと願う。人々が困惑するなか、夫にも言えない秘密ゆえと麻酔を固辞する夫人に応え、メスを執る高峰。「痛みますか。」と問う高峰に「いいえ、貴下だから。」と答える夫人。そして夫人はそのメスに手を添えて、「でも、貴下は、私を知りますまい!」と胸を深く掻き切ってしまう。真っ青におののきながらも「忘れません。」という高峰に、夫人は嬉しげに微笑して果て、高峰も同日に自ら命を絶つ。九年前、躑躅が紅く咲き乱れる小石川植物園で、唯一度、言葉を交わすこともなく擦れ違っただけの二人であった。
鏡花のいわゆる観念小説期の作品。〈予〉の眼を通して描かれた、二人の男女のはかなくも激しい愛の瞬間は、今なお多くの人々の心を捕らえている。

 
   
  泉鏡花作「夜行巡査」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 巡査・八田義延は、職務に忠実で決して情を差し挟むことがない。彼は規則の名の下に、息子を兵隊にとられ貧しい生活を余儀なくされた車夫を身なりが悪いと叱責し、乳飲み子を抱え路頭に迷う女を軒下から凍てつく街に追い立てる。手にした角燈を怪獣の眼のように光らせ、何物をも見落とさぬよう、決められた道筋を一定の法則を以て歩行し、巡回する男である。八田にはお香という婚約者がいたが、お香の亡き母への叶わなかった執心からお香の不幸を望む伯父のために結婚を邪魔され、結ばれずにいた。巡回の途次、お香のその憎き伯父が過って堀に落ちたところに遭遇した八田。彼は一瞬躊躇するが、警官としての職掌を果たすため、お香の制止を振り切って泳げないにもかかわらずに伯父を助けるために水に飛び込み殉職する。
 鏡花の観念小説期の作品。人々は八田の行為を〈仁〉と称えたが、同じく職務のために行った車夫や哀れな母子に対する苛酷な行為を〈仁〉と称える者がないのは何故か、果たして伯父を助けた行為を〈仁〉と呼ぶべきなのだろうか…と最後に語り手に問わせている。

 
   
  泉鏡花作「琵琶傳」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
   父の遺言に従い、許婚の陸軍尉官・近藤重隆に嫁いだお通。しかし、従兄の相本謙三郎と相愛の仲であった彼女は、婚礼の夜、夫に向かって「出来さえすれば節操を破ります!」と言い放つ。その様子に「きっと節操を守らせる」と嘲笑を浮かべ、お通に指一本触れずに彼女をそのまま田舎の弧家に幽閉する重隆。一方、お通の実家では、出征を明日に控えた謙三郎に対し、お通の母が彼の鍾愛する鸚鵡の「琵琶」を空に放ち、脱営してでも出征前にお通に会っていくように告げる。きっと逢いに行くと誓ってお通の幽閉先におもむき、番人の老爺を殺して再会を果たした謙三郎だが、その場で捕われ、二ヶ月後、脱営と殺人の罪で銃殺される。夫・重隆に伴われ、その様子を見せ付けられたお通は、気丈にも平静を保ち続けるが、里帰りを許されて実家で過ごすうちに、その狂気をあらわにしていく。ある一日、「ツウチャン」と彼女の名を呼ぶ「琵琶」に導かれるように謙三郎の眠る墓地にさまよい出たお通は、重隆が謙三郎の墓を足蹴にし、唾を吐きかける様子を目にし、重隆の咽喉を食い破る。
 日清戦争を背景とする作品。その内容ゆえか、昭和15(1940)年から刊行された岩波書店『鏡花全集』には収録されず、同じく収録を見送られた「海城発電」とともに、戦後刊行された『鏡花全集』第2刷以降、別巻に収められた。
 
   
  泉鏡花作「鷭狩」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 初冬の片山津の温泉宿。画家・稲田雪次郎は、真夜中の洗面所で姿見に映った女を美しい幽霊かと思いぞっとする。女はお澄という名の女中で、これから到着するという客を出迎えるために髪を結っていたのだった。部屋でお澄の酌を受けながら、この夜更けに名古屋から柴山潟の鷭を撃ちに来るという客の話を聞いていた稲田は、初めて上野の美術展覧会に入選した絵のモチーフである鷭がその遠来の客のために大量に殺されるのは忍びない、せめて鷭が目覚めて逃げる用意ができるまでの間、その狩を留めて欲しいと頼む。しかし、そこへ到着した客――実はお澄の旦那が鉢合わせし、お澄は折檻を受ける。夜が明け、客が狩に出掛けた後、鷭を描いた絵が入選したというのは嘘であり、お澄ほどの女に夜中に出迎えの支度をさせる男をねたんでやったことだと告白する稲田。お澄は親兄弟を養うために世話になっている旦那を前に稲田の願いを貫いた褒美として、稲田の小指を所望する。お澄に我が指を食い切らせた稲田に、お澄は言うのだった。「看病をいたしますよ。」
怪談の予兆を漂わせつつ、怪談以上に凄絶な世界へと読者を誘う鏡花短篇小説の佳作である。

 
     
 
(2008年3月15日〜3月23日 2008朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
     

 
     
   
   
 
室生犀星作「蜜のあはれ」
 
 
室生犀星記念館館長 丹羽 勇
 
 
 
 

 「蜜のあはれ」は昭和34年、犀星が70歳の時に発表した小説である。この作品の前後には「杏つ子」をはじめ「我が愛する詩人の伝記」「かげろふの日記遺文」等を次々に書き、各文学賞を独占するかのような勢いがあり犀星文学の高揚期に生まれた傑作である。 川端康成が『犀星は、言語表現の妖魔であった』と評したごとく「蜜のあはれ」は、文章がすべて会話のみからなっており、空想を駆使した風変わりな小説である。
 病身の妻をもち、娘や息子もいるオジサマが、哀愁が漂う可憐な乙女に化身した金魚と恋人のように親密な間柄になっていく物語である。金魚はオジサマに、おねだりをしたり、愛して欲しがったり、さらには子どもをもうけたいと願ったりもする。
 幼少の頃から魚介類が好きだった犀星が、金魚を妖艶な若い乙女に変身させ、犀星自身を思わせる老作家と見果てぬ夢のごときエロスの世界を織りなしている作品である。

 
   
  室生犀星作「昨日いらつしつて下さい」  
 
室生犀星記念館館長 丹羽 勇
 
     
 

 犀星独特の表現、まるで意表を突いたような題名の詩集「昨日いらつしつて下さい」は、昭和34年に発行されたもので、犀星晩年の作品である。巻末には『最後の詩集』と題した後書きが記され『…人間が老いるといふことは、舌もまた老いることである。その舌に言葉はうかばない。……それを知りながらなほ言葉を拾はうとしてゐる悶えがあって、その微弱な悶えにすがってこれらが歌ひ現はされたと見た方がいい。…』と述べている。
  もう帰ることが出来ない若き日の昨日に思いを馳せ、老いを迎えた自分は、もはや瑞々しい詩人と言えるかどうか判らないが、敢えて『最後の詩集』として作らなければならなかったのが、この詩集だと言っているのである。
  僅かしか残されていない老境にあって、若い時には思いもしなっかった《命のあわれ》や《奥深い性》など、止むことのない懊悩が飾り気無く歌われている詩集である。

 
     
 
(2008年3月15日〜3月23日 2008朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
   
  室生犀星作「音楽時計」  
 
室生犀星記念館学芸員 嶋田亜砂子
 
     
 

 大正10年1月、31歳のときに「少女の友」に発表した少女小説です。後に題名に、「−街裏にいたところ一つの挿話として録す−」と説明がつけられました。20代のころ、下宿を転々と渡り歩いた犀星が、どこかで実際に体験した物語、ということなのでしょうか。
 大正11年、愛児を亡くしたその年の詩集『忘春詩集』に童話として収録されました。

 
     
 
(2006年3月27日〜4月2日 2006朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
     

 
 
 
   
   
  「にごりえ」樋口一葉作  
 
雨中
 
 
 
 

 明治28年9月20日「文藝倶楽部」に発表する。舞台は「表にかゝげし看板を見れば、子細らしく、御料理とぞしたゝめける」銘酒店が軒並ぶ新開の地。物語は菊の井の酌婦お力と、彼女の為に破滅した源七とが無理とも同意とも解らぬ心中を遂げるまでを描いている。
「これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だ嫌だ」「何うで幾代もの恨みを背負て出た私なれば(中略)此樣な身で此樣な業體で、此樣な宿世で、何うしたからとて人並みでは無いに相違なければ、人並の事を考へて苦勞する丈間違ひであろ、あゝ陰氣らしい」

 山梨県立文学館所蔵の未定稿によれば、当初の草稿に「ものぐるひ」「親ゆずり」の仮題が付けられており、「にごりえ」には、下層階級の人間世界を背景に、菊坂町、龍泉寺町、丸山福山町で没落士族の女戸主として貧困生活を送った作者自身の苦悩と立志の念に引き裂かれる精神世界が、酌婦お力の存在を借りて描かれているように思われる。丸山福山町時代の樋口家の隣家は銘酒屋「浦島」であった。「浦島」に身を置く小林あいが逃亡して一葉に救済を求めて来た際、一葉はあいを守り神戸の実家に帰したというエピソードがある。題名は、無間地獄「濁り江」に停滞する人間世界と「新古今和歌集 よみ人知らず」より「にごりえの すまむことこそかたからめ いかでほのかに影をだに見む」とに由来している。

 
   
  「十三夜」 樋口一葉作  
 
雨中 
 
     
 

 樋口一葉作「十三夜」 明治28年12月10日「文藝倶楽部」臨時創刊「閨秀小説」へ再掲載する「やみ夜」と共に発表される。物語は、嫁ぎ先の夫・原田勇の辛い仕打ちに耐えきれず、子供を置いて実家へ帰って来たお関が、父親に諭され再び原田家へ戻る月夜の晩に、人力車夫へ身を落とした幼馴染みの高坂録之助と再会して別れるまでを描いている。二人は慕い合う仲であったが想いを告げ合うこともなく、「量らぬ人と縁の定ま」ったお関の結婚に録之助は乱心して身を滅ぼしてしまう。お関は変わり果てた録之助の姿に、誰の人生の上にも不幸が存在することに気付き始める。 「十三夜」は樋口家の長女ふじをめぐる樋口家の不幸を書いたものと見られている。ふじは士族和仁元亀との夫婦生活に耐えらず明治8年に離婚して樋口家に復籍し、明治12年に久保木長十郎と再婚して秀太郎を産んでいる。また、作者の母たきが乳母として奉公していた旗本稲葉家が明治維新後没落して、乳母子お鑛の婿・寛が人力車夫に成り下がった経緯も念頭にあったように思われる。一葉の実弟である樋口家の我が儘息子「虎之助」が、作中では夜学へ通う品行方正な弟「亥之助」として登場したり、ふじの子供秀太郎が「太郎」として登場する。 一葉には、父・則義の生前に渋谷三郎という許嫁があった。しかし則義没後、渋谷との縁談は破談となった。この渋谷が「原町田村」の兄・仙次郎宅を拠点に政治運動を行っていた事から「原田」をとり、一葉が好んだ英雄豪傑、任侠義人の勇ましさの「勇」をとって、作中のお関の夫を「原田勇」と命名したのも、則義没後に落胆させられた渋谷三郎を意識したネーミングではないかと考えるのは飛躍しているだろうか。明治25年9月1日「しのぶぐさ」には、渋谷との縁談を破談にした母たきの様子が記録されており、お関の不幸を嘆き原田を批判する母たきの姿が重なるように思う。

 
   
  「うらむらさき 〜樋口一葉作「裏紫」をうけて〜」瀬戸内寂聴作  
 
雨中
 
     
 

 明治29年2月5日「新文壇」に「裏紫(上)」を発表する。その後執筆を止め続稿は未完に終わり「中」の未定稿がいくつか残っている。その後、瀬戸内寂聴著「うらむらさき −樋口一葉『裏紫』をうけて」(小学館「使者」1980年7月号)が発表され、一葉朗読の第一人者幸田弘子氏によって舞台化される。物語は、西洋小間物屋を営む小松原東二郎の内儀お律が、夫を騙して相思相愛の吉岡貢のもとへ出掛けていく「裏紫(上)」をうけて、「裏紫(中)」の未定稿を織り交ぜながら、密通の果てにお律が破滅して行くまでを描き、男性を翻弄する強い女性像を描き出すことにより「貞淑な妻」「慎ましい女性」「良妻賢母」という古い女性像を打ち破っている。

 
     
 
(2008年3月15日〜3月23日 2008朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
     

 
     
  演出ノート  〜 鏡花の文声高らかに 〜  
 
雨中 
 
     
 

 私は亡母憧憬の代表的作品「化鳥」を創造していくうち、雀を愛し鈴夫人と微笑ましい暮らしをなさっていた鏡花先生が、美しい母の住む天上へ鳥のように空へ飛び立とうとしている姿を思い浮かべるようになった。少年の名である「廉」という文字には、潔い、未練がないという意味があり、相対した心情を察する度に私は胸を打たれた。

 「外科室」では、医学士高峰と、覚悟のもと手術台という「貴い船」に乗った貴船伯爵夫人とが、互いに高貴な愛を求めて現世で生きることをやめる。秘めた二人の愛は社会悪であろうかと世に問いかける形で作品は結ばれているが、婚姻に縛られている私達には分かり得ない「高い峰」に到達した高貴な愛の存在を見過ごしてはならないように思える。

 民法が成立した明治31年の婚姻制度では、結婚を希望する男女が、男子30歳未満、女子25歳未満であれば戸主権を持つ親の承諾を必要とした。結婚後も当人らの意思に関わらず、戸主権を行使して離婚させることも可能であった。この封建的社会から生まれた婚姻制度に翻弄された「夜行巡査」の男女、八田義延とお香はまさに伯父によって愛を引き裂かれるのだが、その伯父もまた婚姻という社会が作った制度によって愛に敗れた男でもあった。作中では、堀へ落ち、溺れる伯父を助けるため命を落とした義延の「義」に焦点を置き、義を強要した社会の正体を浮き彫りにすることで、社会制度を甘受しているうちに無関心と傍観を学んだ私達に、社会へ準ずることの不確かさを諭しているように思える。

 「琵琶傳」が発表されたのは明治29年1月。日清戦争勃発の約1年半後であった。この作品には何県何町というような土地設定が無く、作中では、陸軍尉官であるお通の良人近藤重隆が、いとこ同士である謙三郎とお通の情愛を引き裂き、ついにはお通に食い殺されるという結末が描かれており、凄まじい愛の勝ち取り方と世相への反逆に敬服するばかりでした。「琵琶傳」は「外科室」「夜行巡査」に並ぶ観念小説として、研ぎ澄まされた感性とカミソリのような鋭さで世を震撼させていた血気盛んな若き日の鏡花先生の意欲作であるように思う。

 人間世界を舞台としその醜悪を突く「山吹」では、「山吹の花の、わけて白く咲きたる」ような小絲川子爵夫人縫子が行き場を探して、世を達観した人形使と共に現世を超え異界へ旅立つ姿に凛々しさを感ぜずにはいられなかった。現世に取り残された島津は絶句する。「うむ、魔界かな、此は、はてな、夢か、いや現実だ・・・ええ、おれの身も、おれの名も棄てようか・・・いや、仕事がある。」・・・縫子のように現実と魔界が交錯する現世に別れを告げて、私も仲間と共に世を超えたいと思う。

 鏡花先生の豪作に武者震いをしながら挑んだ半年は、私にとって厳しくも至福の時間であった。当初より、演出という大役は私には荷が重すぎると懸念されたが、全身全霊を賭けて取り組む皆さんの気迫と感性に圧倒され、斬新な演出家となるよう、空っぽな私の感性に情熱の魂を授けて下さり、皆さんで私を盛り立てて下さいました。私は今、この御恩に報いるべく一層勤勉に励もうと心を新たにしています。時が過ぎこのページを見開く時が来たら、新進演出家としてデビューさせて頂いたこの初心を思い起こし、再び背筋を伸ばして溌剌と生き抜いて行こうと思います。この場をお借り致しまして、御先達の方々、部員の皆様へ厚く熱く御礼申し上げます。

 
 
平成19年 春陽
 
     
 
(平成19年3月24日〜4月8日 2007朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
     
 
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