表川なおき |
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樋口一葉の文学とは何であろうか。2004年春に新紙幣五千円札へ印刷される国民的文学者となった一葉には「凛とした芯の強い女性、人間の普遍的な世界に迫る作品の数々云々」という世評がある。一葉は生活の困窮を脱する為に文学の道を選んだ。困窮が無ければ「世の中のあだなる富貴栄誉うれはしく捨てゝ、小町の末我やりて見たく」と和歌を詠んで暮らしたように思う。一葉は謎の多い女性であった。人間一葉の人生を辿り、遺した日記の真実と虚無と、遺した作品に心を寄せてその思念を感ずれば、一葉文学の成立を知ることが出来るだろう。 一葉の祖父樋口八左衛門は、甲斐国山梨郡中萩原村(現山梨県塩山市中萩原)に住む中農百姓の倅で、漢詩や俳諧を嗜む風流人であった。八左衛門は、農民らの手紙や文書の代筆をしたり、子供達に読み書きを教える面倒見の良い人物であった。正義感が強く、中萩原村で水飢饉から柏原堰の水利権争いが起きた際に訴状を書き、百姓代表の一人として代官所に訴願した。しかしその訴願は聞き入れられず牢に入れられる事になるのだが、出獄後江戸へ赴き老中阿部伊勢守へ駕籠訴して再び四ヵ月間投獄された経歴を持つ任侠の男であった。 研究者の間では、一葉は生涯純潔を守った女性として讃える立場と、懐疑的な立場を取る研究者とに別れている。一葉は小説を書く為に師事した半井桃水の事を慕っていた。幼馴染みに恋心を抱き焦がれ死にする少女を描いた初期作品「闇桜」にはその想いが表現されていよう。しかし萩の舎で悪い噂が立ち、一葉は一方的に半井に絶交を告げることになる。一葉は半井と過ごした様子を日記に記している。そこには初対面時に恥じらいを見せる可愛い自身の様子や、悪い噂とは無縁の清い間柄であった様子を記している。だが後に、半井側に月15円を定期的に一葉に与えていたという伝聞や文献がある事が分かり物議を醸す事になる。 「にごりえ」作中に、「お力といふは此家の一枚看板、年は隨一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい處があつて女ながらも離れともない心持がする、(中略)あの娘のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜い」というお力の様子が描かれている。祖父八左衛門から受け継いだ任侠心で一葉が代筆していた酌婦達のお客への手紙が、さぞ新開の銘酒街に経済効果をもたらしただろう。 |
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平成20年4月 |
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朗読小屋 浅野川倶楽部 表川なおき |
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年 |
歳 |
出来事 |
研究考察 |
父母経歴 |
一葉の父則義(幼名大吉)は、天保元年11月20日、甲斐国山梨郡中萩原村(現山梨県塩山市中萩原)の中農の家、樋口八左衛門とふさの間に生まれた。その2年後に弟喜作が生まれる。母たき(幼名あやめ)は、同じく中農の家、古屋安兵衛とよしの間に生まれた。若き日の大吉(則義)とあやめ(たき)は何時しか恋仲となるが、家格の違いなどで親に結婚を反対され、安政4年江戸に出奔する。この時、あやめ(たき23才)は大吉(則義27才)の子(長女ふじ)を身籠もっていた。 |
【蕃書調所】
ばんしょしらべしょ 大吉(則義)と、あやめ(たき)のかけおちは、立身出世を志したものであった。旅費の一部は父八左衛門の蔵書売却と質入れとでまかなわれ、八左右衛門は息子大吉の行動を黙認した。自分が果たせなかった野心を息子の中に見たからかも知れない。大吉は2冊の道中日記のうち1冊に詫び状を添えて、江戸から戻る中萩原滝本院住職に預ける。詫び状には「心得違」「存外之不埒(ふらち)」「申訳無」の語は見えるものの、大吉が残した物見遊山のような道中日記からは罪悪感は感じられなかった。
一葉は学問好きの風流人祖父八左衛門、父則義より学問の才能を受け継ぎ、家父長制下、家督を継ぐ泉太郎と同格の扱いを受け、父則義より溺愛されて育った。元士族としての気位が高い一葉像とは・・・。 |
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明治 5年 |
0歳 |
大吉はその後、為之助を名乗り、この年、則義と改名する。陰暦3月25日午前8時、樋口一葉【戸籍名
奈津(なつ)】は、父則義、母たきの次女として、東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)にあった東京府庁構内の武家屋敷の長屋で生まれた。 |
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明治 7年 |
2歳 |
【6月20日】三女くにが生まれる。 |
長女ふじは夫婦生活に耐えられなかった為離婚したらしく、「十三夜」は長女ふじをめぐる樋口家の不幸を書いたものと見られている。なお物語の終盤にお関が出会った幼馴染みの高坂録之助は、お関の婚姻をきっかけに乱心し、受け継いだ煙草屋をつぶし、女房子供を実家へ帰し、木賃宿に衣食する落ちぶれた人力車夫となった。
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明治 8年 |
3歳 |
3月公布より、樋口家は「士族」を肩書きに使うようになった。
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明治 9年 |
4歳 |
【4月】父則義本郷6丁目(現5丁目)に屋敷を購入し転居する。則義は、本業である東京府庁下級官吏に従事するかたわら、不動産売買、金融業に精を出していて、この年、官吏を退職し事業に専念することとなった。樋口家が最も安定し裕福な生活を築いた時期である。 |
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明治10年 |
5歳 |
【3月】向学心の強いなつは5歳の頃から本郷学校に入るが、一緒に通っていた次兄虎之助が退学した為、幼いなつ(一葉)は一人で通うことが出来なくなり退学する。同月末、吉川寅吉が経営する吉川学校に編入した。 |
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明治11年 |
6歳 |
なつ(一葉)は母の目を逃れて、読書人で蔵書家であった父則義の木造倉庫で草双紙類を読み耽り強度の近眼を患う。 |
明治12年 |
7歳 |
【10月20日】長女ふじ同じ屋敷地内に住む久保木長十郎と再婚する。2年後秀太郎を産む。 |
なつ(一葉)は、滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」を3日で読破。なつは英雄豪傑の伝、任侠義人ものなど、勇ましく華やかなものを好んだ。 |
明治14年 |
9歳 |
【7月】1日父則義家屋を売却。9日下谷区御徒町一丁目十四番地に移る。放縦な性格から両親と相容れなかった次男虎之助は分籍され、ふじの嫁ぎ先久保木家に預けられる。
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明治15年 |
10歳 |
【2月】6年間の契約で次兄虎之助は本所区相生町五丁目三十二番地の成瀬誠至に弟子入り。薩摩陶器の絵付けを学ぶ。
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明治16年 |
11歳 |
【12月】私立青海学校小学高等科第4級を首席で修了後、高等教育は女子には不要であると母たきの強い意見で進学出来なかった。泉太郎家督を相続(19才で父が健在なのに家督相続したのは、当時戸主は兵役免除でその恩典を受ける為ではないかとの説がある。 |
「塵之中」自伝抄参照 |
明治17年 |
12歳 |
【1月〜3月】父の知人和田茂雄に和歌の指導を受ける。 |
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明治18年 |
13歳 |
【9月】眞下専之丞の妾腹の子、専之丞の孫にあたる渋谷三郎が17歳で上京。渋谷はしばしば樋口家を訪問、なつ(一葉)と妹くにを寄席などに連れて行ったりして、実質的にはなつ(一葉)の許嫁のようになっていた。 |
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明治19年 |
14歳 |
【8月】小石川安藤坂にあった中嶋歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」へ入門。和歌・書道(千蔭流)・古典を学んだ。萩の舎は華族実業家の夫人令嬢など上流階級のサロンのようなもので、階級の異なる一葉と伊東夏子、田中みの子は、いつしか「平民組」と自称して仲良くなった。 |
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明治20年 |
15歳 |
【2月】萩の舎の新年発会が九段の料理屋で開かれ、兼題「月前柳」が60余人の中で最優秀作に選ばれる。この会でみすぼらしい身なりで出て恥ずかしい思いをした事を、日記「身のふる衣
まきのいち」に書きつづっている。 |
一葉手記「思ひ出る明治二十年七月の頃なりけり、我兄ふと病にかかりぬ」 |
明治21年 |
16歳 |
【2月20日】父則義を後見人として、なつ(一葉)は家督を相続して戸主となる。
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明治22年 |
17歳 |
東京荷馬車運輸請負業組合の加盟業者間で対立が起き脱退者が相次ぎ、ついには百円を出資した父則義の名義で組合設立願書は取り下げられた。樋口家は、父則義の事業の失敗から債権者に責められ塗炭の苦しみを噛みしめていた。 【5月】父則義、大病(脚気か)を患う。病床に渋谷三郎を呼び、なつ(一葉)の夫として樋口家を継いでくれるよう頼み、渋谷は了解する。
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立身出世を目指した渋谷三郎ばかりを責められないが、樋口家にとっては父則義の没後の家の下降期に、裏切りに値する行為とみなしたのではないか。ことに男に任侠義人の勇ましさを求めていたなつ(一葉)は生涯癒えない傷を負ったと思う。渋谷はその後新潟の裁判所で検事、判事を歴任し法制局参事官から秋田県知事、山梨県知事。早稲田大学法学部部長、理事、学長などに就任し大いに出世し昭和6年に65歳で没した。
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明治23年 |
18歳 |
【1月】生活苦の為、母たきと次兄虎之助の争いは絶えず、なつ(一葉)と妹くには口減らしの為に奉公先を探して歩く。
中嶋歌子は気の毒に思い、淑徳女学校の教師に推薦しよ うとしたが、学歴がない為果たせなかった。 |
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明治24年 |
19歳 |
【4月】生活の為に小説家を志す。なつ(一葉)は妹くにの友人野々宮きくの紹介で、当時東京朝日新聞の雑報記者兼専属作家の半井桃水(なからいとうすい)を訪問して小説の手ほどきを受ける。以後頻繁に訪問する。一葉の日記には初回から好感を持ち慕っている様が克明に語られている。
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「若葉かげ」4月
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明治22年、下級役人だった父親の退職前の月給は約20円。父則義亡き後の明治23年、母娘三人で暮らし始めたころ、なつ(一葉)と妹くには仕立てや洗い張りで収入を得ました。単衣(ひとえ)の仕立賃は7銭〜9銭、袷(あわせ)は8〜10銭、木綿綿入れは10〜14銭。洗濯は夏物が2、3銭、冬物は5銭ほど。三人の生活費を月8円位としても相当数こなす必要があり、生活費の他に亡父則義が残した負債の利子を支払わなければならなかった。 |
年 |
歳 |
出来事 |
研究考察 |
明治25年 |
20歳 |
【2月4日】半井の隠れ家を訪問し二人だけで約半日を過ごした後、帰りに雪の中ほり端通りを俥で揺られながら「さまざまの感情むねにせまる」と日記に記す。
「別れ霜」(明治25年3月) |
「につ記」2月3日、4日 「闇桜」(明治25年3月)概要
「につ記」5月22日、29日
「うもれ木」(明治25年11月) |
明治26年 |
21歳 |
【2月】19日 |
「暁月夜」
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明治26年なつ(一葉)が龍泉寺町で開いた荒物雑貨屋で一番の売れ筋は、1個5厘か1銭のゴム風船。日用雑貨より安い駄菓子やおもちゃ中心の、子ども相手の零細な商いだったようです。1日の売上げは30〜40銭ほどで、月の家賃 1円50銭と仕入代を差し引くとほとんど残らず苦しい状況は続きます。 |
年 |
歳 |
出来事 |
研究考察 |
明治26年 |
21歳 |
「雪の日」(明治26年3月) 「琴の音」(明治26年12月) |
一葉は、荒物雑貨店を訪れる子供達、町民、歓楽街に生きる女性、人力車夫、日雇い人足など、下層階級の人々と交流し、萩の舎時代の「ものつゝみの君」という内攻的な性格から、客あしらいの上手な下町の女性となった。 |
明治27年 |
22歳 |
【2月】23日本郷真砂町の天啓顕真術会本部へ乗り込んで相場の占い師久佐賀義孝に援助の申し込みをするが失敗。久佐賀をパトロンにしようとしたのは歌門を開くためとされているが、求めた千円(一千万円)は、それにしては大きい。萩の舎の看板料は二十円だった。28日発行「文学界」第十四号、4月30日発行「文学界」第十六号に「花ごもり」を発表する。
「大つごもり」(明治27年12月) |
「日記ちりの中」2月23日
「塵之中日記」3月19日
一葉の従兄弟樋口幸作の死因は病気は皮膚病であったらしい。病名は一葉の日記には何も書かれていない。一葉研究者和田芳恵氏は、幸作の疾病を「業病」(ハンセン氏病)と推測する「業病説」を唱えて大きな論議を呼んだ。一葉は父則義の不運な死、兄泉太郎の病死、三男大作の生後間もなくの死、そして従兄幸作のある病での死に、樋口家の暗い宿命を感じたに違いない。 |
明治28年 |
23歳 |
【1月】30日、星野天知の依頼により寄稿した、龍泉寺町時代の生活体験に取材し制作した「雛鶏」を「たけくらべ」と改題して「文学界」に掲載。以降1年に渡って断続的に掲載され明治29年1月30日に完結。
「にごりえ」(明治28年9月) 「十三夜」(明治28年12月) |
「軒もる月」 「みずのうえ」5月14日
「ゆく雲」(明治28年5月)概要
野沢桂次のモデルは、樋口家に出入りし父則義が身元引受人として世話した文学青年野尻理作のことであり、明治23年春、東京帝国大学を中退をして故郷へ帰る。後に野尻理作は山梨の「甲陽新報」の主幹を務め、春日野しか子名で一葉の「経づくえ」(明治25年10月)を同紙に掲載した。
「経づくえ」 「うつせみ」(明治28年8月) |
明治29年 |
24歳 |
【1月】1日「日本之家庭」付録に「この子」を発表。4日「國民之友」付録「藻塩草」に「わかれ道」を発表。20日鳥海嵩香の依頼による「裏紫(上)」が完成。
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「この子」(明治29年1月) 「わかれ道」(明治29年1月) 「裏紫(上)」(明治29年1月) 「水のうへ」1月7日 「われから」(明治29年5月) |
一葉は借金返済をしなかった為、萩の者の仲間から嫌われていた。一葉を擁護し続けた伊東夏子は「一葉の憶ひ出」で「割合に、同情させていませんでした」と述べている。一葉の香奠帳の萩の舎関係者の名には、中嶋歌子、小出粲、榊原家、田中みの子、伊東夏子、三宅龍子、中村礼子などがある。葬儀には友人代表として「平民3人組」であった田中みの子、伊東夏子が参列した。埋葬された樋口家の墓は、現在杉並区永福一丁目の築地本願寺和田堀廟所に移されている。 |
家族の消息 |
【母たき】 |
【長女ふじ】久保木長十郎と結婚し菊坂町に居住した。一葉一家が菊坂に転居したのは夫婦の手引きによると見られる。一葉が龍泉寺町に移ってからは疎遠になったらしく日記に殆ど出なくなる。明治31年9月30日、同年2月に死んだ母たきの後を追うように42才で病没した。長十郎とふじの子秀太郎は32年10月に亡くなり、長十郎は再婚したので樋口家との関わりが薄くなった。明治44年1月に亡くなり、子供が無かったので久保木家は途絶えた。 |
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【次男虎之助】陶器の絵師として腕は良かったが病弱で、一葉の死後各地を転々とし、神戸で暫く結婚生活をしたが、妻子を残して単身帰京し、最後は目黒で大正14年3月31日60才で世を去った。 |
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【妹くに】一葉と苦楽を共にした妹くには幸せな結婚生活を送り、11人の子供にも恵まれ、没後の一葉の日記創刊に尽力する。大正15年7月1日に52才で世を去った。 |
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最近の一葉研究 |
【人物研究】一葉は生涯純潔を守った人として讃えられて来ていて、一葉研究の第一人者塩田良平氏始め多くの研究者はこの立場を取るが、塩田氏と並ぶ研究家である和田芳恵氏など懐疑的立場を取る人もいる。最近では平成8年11月出版の瀬戸内寂聴著「わたしの樋口一葉」で、半井桃水との関係で、桃水側の伝聞とか文献で月15円(当時では大金で一葉一家なら月10円で暮らせたという)を定期的に数回に亘り一葉に与えていた事が分かり、日記では一貫して否定しているが、当時桃水は経済的に苦況にあった中でのことで、両者に関係がなかった筈はないとする。また久佐賀義孝についても援助を申し込んだのに妾になれと云われ断ったと日記で散々貶しているが、実はその後久佐賀側の文献に15円渡したことが載っていて、久佐賀程の者が只で金を渡す筈がないとする。この説によると一葉は大分したたかな女性と云うことになるが、またそのような女性でなければ「にごりえ」は書けないと云う。 |
【作品研究】「たけくらべ」は美登利が突然不機嫌になり人間が変貌するところで終わっているのであるが、この変貌の理由として「初潮説」が定説で異論は全くなかった。ところが佐多稲子氏が「たけくらべ解釈へのひとつの疑問」(昭60/5群像(60/10講談社刊「月の宴」に収載))で大胆にも「初店説」を展開し人々を驚かした。直ちに前田愛氏が「美登利のためにーたけくらべ佐多説を読んでー」(群像60/7)で反論し、ここに大論争を巻き起こしたのである。この論争は決着を見ていないが、作家達は多く佐多説を支持し、学者研究家は従来の説を支持する人が多いようである。(平成13年7月クレス出版刊高橋俊夫編「樋口一葉たけくらべ作品論集」に前記2作品全文 他関連評論数編掲載あり) |
平成20年4月 |
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