表川なおき
 
     
 

 樋口一葉の文学とは何であろうか。2004年春に新紙幣五千円札へ印刷される国民的文学者となった一葉には「凛とした芯の強い女性、人間の普遍的な世界に迫る作品の数々云々」という世評がある。一葉は生活の困窮を脱する為に文学の道を選んだ。困窮が無ければ「世の中のあだなる富貴栄誉うれはしく捨てゝ、小町の末我やりて見たく」と和歌を詠んで暮らしたように思う。一葉は謎の多い女性であった。人間一葉の人生を辿り、遺した日記の真実と虚無と、遺した作品に心を寄せてその思念を感ずれば、一葉文学の成立を知ることが出来るだろう。

 一葉の祖父樋口八左衛門は、甲斐国山梨郡中萩原村(現山梨県塩山市中萩原)に住む中農百姓の倅で、漢詩や俳諧を嗜む風流人であった。八左衛門は、農民らの手紙や文書の代筆をしたり、子供達に読み書きを教える面倒見の良い人物であった。正義感が強く、中萩原村で水飢饉から柏原堰の水利権争いが起きた際に訴状を書き、百姓代表の一人として代官所に訴願した。しかしその訴願は聞き入れられず牢に入れられる事になるのだが、出獄後江戸へ赴き老中阿部伊勢守へ駕籠訴して再び四ヵ月間投獄された経歴を持つ任侠の男であった。

 一葉の父樋口則義の幼名は大吉と言った。大吉(則義)は八左衛門の血を受け継いだ学問好きの青年で、慈雲寺の住職白厳和尚が開く寺子屋に熱心に通い、俊才であった。大吉は同郷の中農古屋安兵衛の娘あやめ(後の一葉母たき)と恋仲になるが、裕福な古屋家に家格が違うと結婚を反対され、若い二人は駆け落ちをして江戸へ出奔する。大吉の立身出世を望んでいた八左衛門はそれを黙認していた。その後、大吉は同郷の出世頭眞下専之丞を頼って江戸の蕃書調所の小使になる。あやめは長女ふじを出産後すぐ里子に出して、二千五百石の旗本稲葉大膳の屋敷に乳母として奉公に出て、姫君お鑛(こう)に仕える。

 二人は懸命に働き貯蓄に励んで、専之丞の世話により慶応3年八丁堀同心浅井竹蔵の株を買って幕府直参となる。しかし苦労の末、農民から士族の身分を得た二人は、1868年の明治維新により江戸幕府崩壊に遭遇する。時代の変革により没落士族が溢れ散り散りになる中、大吉は幕臣から東京府庁の下級官吏になる事に成功する・・・・・・そして、明治5年3月25日午前8時、東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)東京府庁構内の武家屋敷で、元士族の父則義、母たきの次女として奈津(一葉)は生まれた。

 研究者の間では、一葉は生涯純潔を守った女性として讃える立場と、懐疑的な立場を取る研究者とに別れている。一葉は小説を書く為に師事した半井桃水の事を慕っていた。幼馴染みに恋心を抱き焦がれ死にする少女を描いた初期作品「闇桜」にはその想いが表現されていよう。しかし萩の舎で悪い噂が立ち、一葉は一方的に半井に絶交を告げることになる。一葉は半井と過ごした様子を日記に記している。そこには初対面時に恥じらいを見せる可愛い自身の様子や、悪い噂とは無縁の清い間柄であった様子を記している。だが後に、半井側に月15円を定期的に一葉に与えていたという伝聞や文献がある事が分かり物議を醸す事になる。

 また、歌塾を開く為として、相場占い師久佐賀義孝の天啓顕真術会へ単身乗り込んで高額援助を申し込み、その後、援助する代わりに妾になるよう迫られ断固拒否した事を日記に記して、久佐賀を蔑む日記も遺している。しかし久佐賀側に15円を渡した文献が残っており、久佐賀ほどの者が只で金を渡す筈がないとも考えられる。その後も一葉は約一年間久佐賀と手紙のやり取りを行っており、彼の訪問も受けていたようだ。妾という条件を提示され拒みながら、一葉は久佐賀から資金を引き出そうと闘っていたのだろうが真相は分からない。

 一葉は久佐賀と初対面した2ヶ月後、吉原遊郭近く龍泉寺町の店を引き払い、明治28年5月1日に新開地丸山福山町に転居しており、明治29年1月4日発表「わかれ道」には、針仕事に疲れ果て妾奉公に出る女性お京を描いている。一葉の残した日記は全てが真実とは言い難いが、私は純潔論をして完全無瑕か否かとするのではなく、虚無と虚像を日記に遺す事により、一葉は見事完全無瑕の一美人を創り上げたのではと思うのだ。日記は作品として発表されることを前提に書かれ、苦楽を共にした妹くにが出版に奔走した。そして一葉は没落士族の女戸主として樋口家を文名で盛り立て、文学界の最高峰に君臨する事となった。

 「にごりえ」作中に、「お力といふは此家の一枚看板、年は隨一若けれども客を呼ぶに妙ありて、さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく我まゝ至極の身の振舞、少し容貌の自慢かと思へば小面が憎くいと蔭口いふ朋輩もありけれど、交際ては存の外やさしい處があつて女ながらも離れともない心持がする、(中略)あの娘のお蔭で新開の光りが添はつた、抱へ主は神棚へさゝげて置いても宜い」というお力の様子が描かれている。祖父八左衛門から受け継いだ任侠心で一葉が代筆していた酌婦達のお客への手紙が、さぞ新開の銘酒街に経済効果をもたらしただろう。

 洒落本人情本に摂取した結城朝之助とお力の会話形式は、聞き手と話し手に別れた一葉の自問自答であろう。「三代傳はつての出來そこね」「終は人の物笑ひに」「持たれたら嬉しいか、添うたら本望か、それが私は分りませぬ」等には、草稿で「ものぐるひ」「親ゆずり」と仮題した一葉の心理が現れている。「お前は出世を望むな」「ゑッ」「思ひ切つてやれやれ」「けしかけ詞はよして下され」一葉は、祖父八左衛門から風流と任侠を、父則義から学才と立志の血を受け継いだ。「にごりえ」は娼婦物語や貧民街物語ではなく、血の宿命に引き裂かれる奈津(一葉)の悲劇を描いたものであろう。

 「裏紫(上)」は、「夫のある女性が姦通した場合、相姦の相手と共に6ヶ月以上2年以下の重禁錮に処す」という旧刑法「姦通罪」を背景に描かれていた。「裏紫(上)」以降は未完に終わったが、その意志を継いで、明治29年5月10日に「われから」を「文藝倶楽部」に発表している。この作品は完結した形で遺された一葉の最後の小説だ。物語は、父親の財産を受け継いだ町子が政治家金村恭助を婿に迎えるが、子供に恵まれず、知人の子と偽り妾に産ませた子を養子に迎えようと恭助に持ち掛けられ、下女らの陰口に真相を知っていた町子が、憎しみの余り病に伏してしまい、看病に当たった書生千葉との悪い噂が周囲に広まり、恭助が一方的に町子を家から追い出すという不平等極まりないテーマを掲げている。

 姦通罪は男女平等に違反する為、昭和22年10月に廃止された。姦通罪の廃止にあたり「妻のある男性にも姦通罪を適用するよう改正すれば憲法違反とならない」という意見もあったそうだが、適用すれば罰せられる代議士が大量に出るため廃止となったのではと揶揄する事も出来よう。「われから」の恭助が政治家である事の一致には意義がある。「十三夜」には作者を取り巻く人物達が多く登場している。自由民権運動の流れの中、明治14年11月に設立され渋谷三郎が参加していた「融貫社」の拠点が「原町田村」の兄渋谷仙次郎宅であった事から、私は「十三夜」で母親が立腹する「原田勇」は、渋谷三郎を意識したものであると決定した。「原田」は、勉強家で狂死した書生として「われから」にも登場する。結婚破棄への恨みは深しという事だろうか。

 一葉にとって男とは何だったのだろう。「裏紫」の未定稿「裏紫(中)」では「良人といふは名ばかりあれは木偶の坊の牢番、ぬけて來るに子細は御座んせぬ」と言い、その「裏紫(上)(中)」を受けて瀬戸内寂聴氏が著作された「うらむらさき」では、夫には聖女のように、愛人には悪女のように振る舞うお律が、華々しく破滅して行く姿を描いている。「われから」には町子の他に父與四郎と母美尾が登場する。

 絶世の美貌を持った美尾は「何事の秘密ありとも知らざりき」與四郎の妻を辞め、ある日、町子を置いて蒸発してしまう。與四郎は失意の反動で赤鬼と呼ばれる高利貸しとなり蓄財に執心するようになる。その母の罪を負うかのように「浮き世の捨て物」となる町子は、夫恭助との別れ際に「我れをば捨てゝ御覧ぜよ。一念が御座りまする」と言って去っていく。どんな一念があるのだろうか、恭助を地獄に落とす手段を持っていたのか、それとも悪習姦通罪に敵する方法があったのだろうか。この捨て台詞は負け惜しみではなく、いつか見返してやるという意志の表明だろう。

 驚くべき事は、革新的かつ先進的な女性を描いた意欲作「裏紫(上)」「われから」が、今から112年前の因習深き時代に発表されていた事だ。多くの女性が絶望の淵に生きる中、男が創り上げた封建的社会の牙城を粉々に崩すべく、虎視眈々とする女性が明治期に存在していた。そして強い現代女性の出現を望んでいた。現代の男性よ覚悟せよ。経済はキャリアウーマンに支配され、豊かな知性が社会を包み、封建的な男社会が崩壊する日が間近に迫っているのだ。そして女性は、世に傷を受けない完全無瑕の一美人となり現代を凛々しく生きて行くのだ。



明治26年2月6日「よもぎふにつ記」より
六日 空はくもれり。「又雨なるべし」と人々いふ。著作のこと、こゝろのまゝにならず、かしらはたゞいたみに痛みて、何事の思慮もみなきえたり。こゝろざすは完全無瑕の一美人をつくらんの外なく、目をとぢて壁にむかひ、耳をふさぎて机に寄り、幽玄の間に理想の美人をもとめんとすれば、天地みなくらく成りて、そのうつくしき花の姿も、その愛らしきびんがの声も、心のかゞみにうつりきたらず。からく見とむれば紫は朱をうばひ、白は黒にうつり、表には裏あり、善には悪ともなひ、わが筆によそほひて世にともなふべきあたひなく、しばしばうれひ、しばしばうらみ、かしこをけづり、こゝをそぎ、やゝわが心にみてりとおもへば、黒のうせぬる時しろもうせ、悪をしりぞけし時に善も又みえず成りぬ。かくまでに我恋わぶる美人は、まさしく世の中にあり得べからざるか。(中略)我れは営利の為に筆をとるか。さらば何が故にかくまでにおもひをこらす。得る所は文字の数四百をもて三十銭にあたひせんのみ。家は貧苦せまりにせまりて、口に魚肉をくらはず、身に新衣をつけず。老たる母あり、妹あり。一日一夜やすらかなる暇なけれど、こゝろのほかに文をうることのなげかはしさ。いたづらにかみくだく筆のさやの、哀れ、うしやよの中。

 
     
 
平成20年4月
 
     

 
 

 

 

 
朗読小屋 浅野川倶楽部 表川なおき
 
 

出来事

研究考察

父母経歴

一葉の父則義(幼名大吉)は、天保元年11月20日、甲斐国山梨郡中萩原村(現山梨県塩山市中萩原)の中農の家、樋口八左衛門とふさの間に生まれた。その2年後に弟喜作が生まれる。母たき(幼名あやめ)は、同じく中農の家、古屋安兵衛とよしの間に生まれた。若き日の大吉(則義)とあやめ(たき)は何時しか恋仲となるが、家格の違いなどで親に結婚を反対され、安政4年江戸に出奔する。この時、あやめ(たき23才)は大吉(則義27才)の子(長女ふじ)を身籠もっていた。

大吉の出奔後、樋口家は次男喜作が継ぐ。喜作は妻まんとの間に長男幸作、長女はん、次女くらを授かる。大吉(則義)は同郷の先輩眞下専之丞(ましもせんのじょう)を頼り幕府の蕃書調所の小使となり、あやめ(たき)は長女ふじを出産後まもなく里子に出し、本郷湯島三丁目に屋敷を構えていた二千五百石の旗本稲葉大膳の家の乳母に奉公に出て、姫様と呼ばれて育てられた稲葉家の養女「鑛(こう)」に仕える。

懸命に働き貯蓄に励んで、慶応3年八丁堀同心浅井竹蔵の株を買って幕府直参となるが、1868年明治維新により翌明治元年江戸幕府崩壊に遭遇する。没落士族が散り散りになる中、大吉(則義)は幕臣から東京府の下級官吏になることに成功する。

【蕃書調所】 ばんしょしらべしょ
1856年(安政3)江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関。洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。翌年開校、62年(文久2)一橋門外に移転、洋書調所と改称、63年さらに開成所と改称。

大吉(則義)と、あやめ(たき)のかけおちは、立身出世を志したものであった。旅費の一部は父八左衛門の蔵書売却と質入れとでまかなわれ、八左右衛門は息子大吉の行動を黙認した。自分が果たせなかった野心を息子の中に見たからかも知れない。大吉は2冊の道中日記のうち1冊に詫び状を添えて、江戸から戻る中萩原滝本院住職に預ける。詫び状には「心得違」「存外之不埒(ふらち)」「申訳無」の語は見えるものの、大吉が残した物見遊山のような道中日記からは罪悪感は感じられなかった。

眞下専之丞の書類工作、支援により、苦労して士族の身分を得た大吉(則義)。寺子屋で学問を身につけた大吉(則義)は几帳面な記録家であり、樋口家の内情を記した「則義文書」なるものを残し祖父八左衛門の書簡と共に山梨県立文学館に寄贈されている。

一葉は学問好きの風流人祖父八左衛門、父則義より学問の才能を受け継ぎ、家父長制下、家督を継ぐ泉太郎と同格の扱いを受け、父則義より溺愛されて育った。元士族としての気位が高い一葉像とは・・・。

明治 5年
(1872年)

0歳

大吉はその後、為之助を名乗り、この年、則義と改名する。陰暦3月25日午前8時、樋口一葉【戸籍名 奈津(なつ)】は、父則義、母たきの次女として、東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)にあった東京府庁構内の武家屋敷の長屋で生まれた。

この時、父則義41才、母たき37才、長女ふじ14才、長男泉太郎7才、次男虎之助5才。明治2年三男大作は産後間もなく亡くなり、その後に生まれたなつ(一葉)は、家族の寵愛を一身に受け、世渡りに長けた父則義が築いた中流家庭に育てられる。

明治 7年
(1874年)

2歳

【6月20日】三女くにが生まれる。

【10月】長女ふじが陸軍軍医士族和仁元亀と結婚する。和仁の
父は元宇都宮藩主の奥医者であった。

長女ふじは夫婦生活に耐えられなかった為離婚したらしく、「十三夜」は長女ふじをめぐる樋口家の不幸を書いたものと見られている。なお物語の終盤にお関が出会った幼馴染みの高坂録之助は、お関の婚姻をきっかけに乱心し、受け継いだ煙草屋をつぶし、女房子供を実家へ帰し、木賃宿に衣食する落ちぶれた人力車夫となった。
一葉の母たきが「幼名あやめ」だった頃、乳母として奉公していた元旗本稲葉家が、明治維新後没落して乳母子(めのとご)鑛の夫寛が人力車夫に成り下がった経緯も念頭にあったのではないか。

明治 8年
(1875年)

3歳

3月公布より、樋口家は「士族」を肩書きに使うようになった。

【7月23日】長女ふじが和仁元亀と離婚、樋口家に復籍する。

明治 9年
(1876年)

4歳

【4月】父則義本郷6丁目(現5丁目)に屋敷を購入し転居する。則義は、本業である東京府庁下級官吏に従事するかたわら、不動産売買、金融業に精を出していて、この年、官吏を退職し事業に専念することとなった。樋口家が最も安定し裕福な生活を築いた時期である。

明治10年
(1877年)

5歳

【3月】向学心の強いなつは5歳の頃から本郷学校に入るが、一緒に通っていた次兄虎之助が退学した為、幼いなつ(一葉)は一人で通うことが出来なくなり退学する。同月末、吉川寅吉が経営する吉川学校に編入した。

明治11年
(1878年)

6歳

なつ(一葉)は母の目を逃れて、読書人で蔵書家であった父則義の木造倉庫で草双紙類を読み耽り強度の近眼を患う。

明治12年
(1879年)

7歳

【10月20日】長女ふじ同じ屋敷地内に住む久保木長十郎と再婚する。2年後秀太郎を産む。

なつ(一葉)は、滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」を3日で読破。なつは英雄豪傑の伝、任侠義人ものなど、勇ましく華やかなものを好んだ。

明治14年
(1881年)

9歳

【7月】1日父則義家屋を売却。9日下谷区御徒町一丁目十四番地に移る。放縦な性格から両親と相容れなかった次男虎之助は分籍され、ふじの嫁ぎ先久保木家に預けられる。

【10月】14日父則義本郷の屋敷を売却し下谷区御徒町三丁目三十三番地に転居。なつ(一葉)はしばらく東京師範学校付属小学校に通った。

【11月】なつ(一葉)下谷区上野元黒門町にあった私立青海学校へ転校。この年警視庁が置かれ、父則義は警視庁警視所属となり樋口家は月給20円の生活に戻る。

明治15年
(1882年)

10歳

【2月】6年間の契約で次兄虎之助は本所区相生町五丁目三十二番地の成瀬誠至に弟子入り。薩摩陶器の絵付けを学ぶ。

【11月】なつ(一葉)青海学校中等第一級へ進級。

明治16年
(1883年)

11歳

【12月】私立青海学校小学高等科第4級を首席で修了後、高等教育は女子には不要であると母たきの強い意見で進学出来なかった。泉太郎家督を相続(19才で父が健在なのに家督相続したのは、当時戸主は兵役免除でその恩典を受ける為ではないかとの説がある。

「塵之中」自伝抄参照

明治17年
(1884年)

12歳

【1月〜3月】父の知人和田茂雄に和歌の指導を受ける。

【10月】下谷西黒門町に移転。

 

明治18年
(1885年)

13歳

【9月】眞下専之丞の妾腹の子、専之丞の孫にあたる渋谷三郎が17歳で上京。渋谷はしばしば樋口家を訪問、なつ(一葉)と妹くにを寄席などに連れて行ったりして、実質的にはなつ(一葉)の許嫁のようになっていた。

明治19年
(1886年)

14歳

【8月】小石川安藤坂にあった中嶋歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」へ入門。和歌・書道(千蔭流)・古典を学んだ。萩の舎は華族実業家の夫人令嬢など上流階級のサロンのようなもので、階級の異なる一葉と伊東夏子、田中みの子は、いつしか「平民組」と自称して仲良くなった。

明治20年
(1887年)

15歳

【2月】萩の舎の新年発会が九段の料理屋で開かれ、兼題「月前柳」が60余人の中で最優秀作に選ばれる。この会でみすぼらしい身なりで出て恥ずかしい思いをした事を、日記「身のふる衣 まきのいち」に書きつづっている。

【6月】父警視庁を退職。

【12月】病弱であった長男泉太郎は、大蔵省出納局配賦課雇になっていた。しかし9月17日に肺結核で大喀血をして、3ヶ月後の12月27日に23才の若さで死去し一家に衝撃を与えた。

 

 

一葉手記「思ひ出る明治二十年七月の頃なりけり、我兄ふと病にかかりぬ」

明治21年
(1888年)

16歳

【2月20日】父則義を後見人として、なつ(一葉)は家督を相続して戸主となる。

【5月】則義は黒門町の自宅を売却し一家は分籍になっていた芝高輪北町の次男虎之助の借家に同居するものの、母たきと虎之助の対立は絶えなかった。

【6月】則義は東京荷馬車運輸請負業組合という新事業設立準備に関わり、東京府の認可を得て事務所を開設する。この頃、東京帝国大学古典科に学ぶ、則義の故郷に近い山梨県玉宮村の酒屋の息子野尻理作や、東京専門学校邦語法律科(現早稲田大学法学部)に学ぶ渋谷三郎が樋口家に出
入りしていた。泉太郎が亡くなり気落ちしていた樋口家は三郎や理作の訪問を心から喜び、家族同様のあつかいをしていた。則義はなつ(一葉)の配偶者として期待する。同月、萩の舎の先輩田辺龍子(三宅雪嶺婦人三宅花圃)が、兄の法事の費用を捻出する為と書きおろした小説「藪の鶯」が金港堂から出版され、33円20銭の原稿料を得た。後に一葉が生活のため小説を志すきっかけとなる。

明治22年
(1889年)

17歳

東京荷馬車運輸請負業組合の加盟業者間で対立が起き脱退者が相次ぎ、ついには百円を出資した父則義の名義で組合設立願書は取り下げられた。樋口家は、父則義の事業の失敗から債権者に責められ塗炭の苦しみを噛みしめていた。

【5月】父則義、大病(脚気か)を患う。病床に渋谷三郎を呼び、なつ(一葉)の夫として樋口家を継いでくれるよう頼み、渋谷は了解する。

【7月】12日父則義、事業失敗の心労から病状が進み58才で死去。

【9月】4日なつ(一葉)、妹くに、母たきらは芝区西応寺町六十番地、西応寺裏の次兄虎之助の借家へ転居。職人肌虎之助と士族肌母たきの間にはやはり対立が絶えなかった。

立身出世を目指した渋谷三郎ばかりを責められないが、樋口家にとっては父則義の没後の家の下降期に、裏切りに値する行為とみなしたのではないか。ことに男に任侠義人の勇ましさを求めていたなつ(一葉)は生涯癒えない傷を負ったと思う。渋谷はその後新潟の裁判所で検事、判事を歴任し法制局参事官から秋田県知事、山梨県知事。早稲田大学法学部部長、理事、学長などに就任し大いに出世し昭和6年に65歳で没した。

家督を相続するということは、男女の性別に関わらず、家を捨て結婚することは法律上認められない時代であった。なつ(一葉)の場合は、婿をとることでしか結婚は出来なかった。しかしなつ(一葉)は、家が没落していくことは、同時に恋や愛にに見切りをつけなければならないと悟り、女戸主として生きる決意をした。

一葉の実姉ふじの離婚が背景となっている「十三夜」のp161〜162では、原田勇の横暴に耐えかて実家に帰って来た娘お関を庇う母親の立腹姿が、渋谷の背信に激怒した母たきの姿に重なる。作品に登場する家族にも、一葉の実兄我が儘息子虎之助が、夜学に通う「品行方正な弟」亥之助として(虎→亥)、後に実姉ふじが産む秀太郎が、お関が置いてくる子供太郎として登場する。

更に深入りすれば、1874年自由民権運動が始まり、1881年に設立させた政治結社「融貫社」に参加していた渋谷三郎が、原町田村の兄渋谷仙次郎宅を拠点として運動をしていたことから、「原町田村」の「原田」をとり英雄豪傑、任侠義人の勇ましさの「勇」をとって、お関の夫を「原田 勇」と命名したのも、なつ(一葉)が勇ましさを感じず落胆した渋谷三郎に名付けた皮肉な名であると考えるのは飛躍していようか。「十三夜」は一葉の持つ男性観を感じる作品でもある。

母たきが乳母として仕えた稲葉家の姫様鑛は、明治十五年に戸主として家督を相続し2年後入り婿を迎える。夫となった寛は手がけた小事業がことごとく失敗して、明治維新後没落していく稲葉家を盛り返すことが出来ず、人力車夫や日雇い人足をするまでに落ちぶれる。極貧生活に陥っていく稲葉鑛を、なつ(一葉)はお鑛様と呼び、乳母姉妹として気にかけ、「暁月夜」の原稿料が入るとその一部を生活の足しにと持参する。なつ(一葉)が見た稲葉一家の惨めな現実は、一葉の小説の多くの作中人物に投影される。夫の寛は三十七歳で病没。人力車夫や日雇い人足に成り下がった姿は「十三夜」の高坂録之助を思わせる。

明治23年
(1890年)

18歳

【1月】生活苦の為、母たきと次兄虎之助の争いは絶えず、なつ(一葉)と妹くには口減らしの為に奉公先を探して歩く。 中嶋歌子は気の毒に思い、淑徳女学校の教師に推薦しよ うとしたが、学歴がない為果たせなかった。

【春】 野尻理作は帝国大学を中退して玉宮村へ帰郷する。渋谷三郎は司法試験に合格して司法界に進むことを志 す。母たきが許嫁の間柄であった渋谷に真意を確かめたところ、渋谷は一旦承諾するが返答を保留して、後日使いの佐藤梅吉を寄こし、任官までの援助金を樋口家に期待して母たきを立腹させてしまい破談となる。破談後も渋谷は樋口家に出入りしている。破談から2年後、なつ(一葉)は渋谷の求婚を受けるが断る。

【5月〜9月】
なつ(一葉)萩の舎に住み込み内弟子として雑用を行う。9月末から、本郷区菊坂町七十番地を借り、母たきと妹くにを住まわせる。なつは中嶋歌子の家に住み込みながら、母たきや妹くにと共に針仕事・洗張・蝉表 (せみおもて)などの内職をして生活した。

明治24年
(1891年)

19歳

【4月】生活の為に小説家を志す。なつ(一葉)は妹くにの友人野々宮きくの紹介で、当時東京朝日新聞の雑報記者兼専属作家の半井桃水(なからいとうすい)を訪問して小説の手ほどきを受ける。以後頻繁に訪問する。一葉の日記には初回から好感を持ち慕っている様が克明に語られている。

【10月以降】筆名「一葉」が使われはじめた。

「若葉かげ」4月
「若葉かげ」4月11日
「若葉かげ」4月15日

明治22年、下級役人だった父親の退職前の月給は約20円。父則義亡き後の明治23年、母娘三人で暮らし始めたころ、なつ(一葉)と妹くには仕立てや洗い張りで収入を得ました。単衣(ひとえ)の仕立賃は7銭〜9銭、袷(あわせ)は8〜10銭、木綿綿入れは10〜14銭。洗濯は夏物が2、3銭、冬物は5銭ほど。三人の生活費を月8円位としても相当数こなす必要があり、生活費の他に亡父則義が残した負債の利子を支払わなければならなかった。

出来事

研究考察

明治25年
(1892年)

20歳

【2月4日】半井の隠れ家を訪問し二人だけで約半日を過ごした後、帰りに雪の中ほり端通りを俥で揺られながら「さまざまの感情むねにせまる」と日記に記す。

【3月】桃水は殆ど一葉の為に同人誌「武蔵野」を創刊し、23日「闇桜」を「武蔵野」第壱編に発表し作家としての第一歩を踏み出した。また、浅香のぬま子という筆名で3月31日から4月18日までの15回に渡って「別れ霜」を「改進新聞」に連載。

【4月】「たま襷」を「武さし野」第二編に発表。しかし「武蔵野」の売り上げは伸びず、桃水自身は肛囲炎を起こす。

【5月】5日、本郷区菊坂町七十番地の西隣69番地の一間多い借家に移る。

【6月】12日、一葉は桃水のことを黙っていられなくて、誰彼なく吹聴して廻ってしまい、萩の舎内部で一葉と桃水の間について良からぬ風評が立ち、歌子の絶交勧告を受け、やむを得ず桃水を訪問し交際を絶つ旨伝える。

【7月】23日「五月雨」が「武さし野」第三編に掲載される。

【10月】6日頃野尻理作の依頼により「経づくえ」を18日から25日にかけて7回に渡り「甲陽新報」に連載。

【9月】15日、中嶋歌子の意を受けた萩の舎の先輩田辺龍子(三宅花圃)の仲介で、一流文芸雑誌「都の花」に執筆出来ることになる。

【11月から12月】
「都の花」に「うもれ木」が連載され、当時「文学界」創刊の準備をしていた平田禿木や星野天知らの注目を浴び、12月23日星野天知は「女学生」第三十号に「うもれ木」の評を書き、田辺龍子を介して「文学界」へ寄稿を依頼する。「文学界」グループの若い文学青年に取り囲まれ、彼らとの交友が一葉にとって重大な文学的転機となった。花圃はその後も小説を発表し続けるが、やがて創作力も落ちて、完全に一葉に逆転され、爾後小説は書かなくなる。

「別れ霜」(明治25年3月)
呉服商の一人娘お高と一人息子芳之助で許嫁の間柄であった。だがお高の父は欲深い野心家で、芳之助の店を乗っ取る。家を追われた一家は長屋に住まい芳之助は人力車夫に身を落とす。ある日、彼の車に偶然お高が乗り合わせ再会する。お高は芳之助の両親に詫びるが彼の父は許さなかった。許嫁であった芳之助とお高は両家の墓所で心中を図るが、お高の店の番頭が彼女を止めたため芳之助だけが亡くなる。その後お高は軟禁生活を強いられ、親の勧める医師との結婚を承諾して周囲が油断した時、芳之助の後を追おうと家を抜け出す。

「十三夜」を連想させる。

「につ記」2月3日、4日

「闇桜」(明治25年3月)概要
園田家の息子良之助と中村家の娘千代は幼馴染みで仲が良かった。2月半ば楽しげに縁日に出かけた2人を千代の学校友達の一群が見つけ「おむつまじいこと」と冷やかして去った。その時以来、千代は良之助への想いを恋として意識し、恥ずかしさと恨めしさから良之助に顔を合わせることが出来なくなる。そしてついに苦しさのあまり病床に臥してしまう。千代の心を知った良之助は彼女を見舞うが、彼女の命の炎は消えようとしていた。外に出れば鐘の音が悲しく響き、夕闇にほろほろと桜が散るのであった。
「闇桜」はまさに半井桃水へ寄せた一葉の想いそのものです。

「につ記」5月22日、29日
「しのぶぐさ」9月1日
「よもぎふにつ記」12月20日
「よもぎふにつ記」12月29日、30日

「うもれ木」(明治25年11月)
陶画工入江籟三は、不遇な貧乏生活をして名品の創作に専念していた。籟三は、師匠の金を持ち逃げしたかつての相弟子篠原辰雄と出会う。篠原は事業に成功し籟三に海外博覧会出品の話を持ちかける。お蝶は篠原を恋するようになるが、実は彼は詐欺師で、狙った金持ちの男に対する色仕掛けにお蝶を使うため兄妹をだますのだった。お蝶は篠原からの依頼にだまされ苦悩し、遺書を残して家出をする。だまされ愛する妹を失った籟三は、丹精込めた作品との恍惚な玉砕を念じて花瓶を庭石にたたきつける。

貧乏生活をする入江籟三のモデルは次兄虎之助で、一家が身を寄せた芝区高輪北町(現港区高輪)の虎之助との借家生活と、芝区西応寺町(現港区芝)の西応寺裏での借家生活から、設定が「東京高輪如輪寺前の借家」となったと思われる。

明治26年
(1893年)

21歳

【2月】19日
「暁月夜」を「都の花」に発表。

【3月】31日
「雪の日」を「文学界」に発表。

【5月】25日
妹くにが蝉表製造を中止。

【6月】18日「都の花」が廃刊となり文筆収入が途絶え生活が切迫。29日金策尽き家族会議で実業に就く事に決定。

【7月】「糊口的文学の道」から脱するという心意気で吉原遊郭の近く下谷龍泉寺町三百六十八番地に移り、荒物雑貨、おもちゃ、駄菓子を売る店を開店する。以後、一葉が仕入れを行い、妹くにが裁縫仕事と店番を担当する。

【10月】25日平田禿木来訪「文学会」との関係が復活し図書館に通い勉強を続ける。

【12月】30日「琴の音」を「文学界」に発表。

【暮】「暁月夜」の原稿料として11円40銭を受け取る。一葉は10円のつもりだったので余分に貰った分を「いでや喜びは諸共に」と、母が乳母をしていた元旗本稲葉大膳家のお姫様鑛(こう)を訪ねる。

「暁月夜」

「よもぎふにつ記」2月6日
「よもぎふにつ記」2月28日
「よもぎふにつ記」3月30日
「につ記」5月29日
「日記」6月27日、29日
「日記」7月1日
「につ記」7月12日
「塵之中」7月15日、17日
「塵之中」7月20日
「塵之中」8月3日
「塵之中」8月9日
「塵之中」8月10日
「塵中日記」9月19日、21日
「塵中日記 今是集」10月9日
「塵中日記 今是集」11月23日

明治26年なつ(一葉)が龍泉寺町で開いた荒物雑貨屋で一番の売れ筋は、1個5厘か1銭のゴム風船。日用雑貨より安い駄菓子やおもちゃ中心の、子ども相手の零細な商いだったようです。1日の売上げは30〜40銭ほどで、月の家賃 1円50銭と仕入代を差し引くとほとんど残らず苦しい状況は続きます。

明治27年最後の引越しとなった本郷丸山福山町の一軒屋の家賃は月3円。一葉の原稿料は1枚25銭〜30銭、1作書き上げて入る稿料は10円少々。その大半が借金の返済に消えるため、なつ(一葉)一家は着物の質入と知人友人からの借金を繰り返していました。

出来事

研究考察

明治26年
(1893年)

21歳

「雪の日」(明治26年3月)
薄井珠は山里の名家に生まれ伯母のもとで育てられる。十五歳の冬、幼少から可愛がられ慕っていた小学校の若い先生桂木一郎との仲が村中の噂になり、伯母は怒り会うことを禁じた。珠は悲しみ、伯母の戒めと世間の目に悩まされ、一月七日の雪の日、年始の挨拶に出かけた伯母の留守中、桂木への慕情につき動かされ故郷を捨てて出奔する。やがて桂木の妻となった珠は、雪景色に見入りつつ、嘆き悲しんで亡くなった伯母を想い深い悔恨にうち沈む。

「琴の音」(明治26年12月)
四歳の時に母が実家に引き戻され、酒にうさをはらす父親は放浪生活で朽ち果て、十四歳となった少年渡辺金吾は、いつしか悪の道に入り込んですさんだ人生を送っていた。ある秋雨の夜、根岸の近辺で美しい琴の音色に心が惹かれ、希望が沸き起こり明るい人生に立ち戻ることになる。

一葉は、荒物雑貨店を訪れる子供達、町民、歓楽街に生きる女性、人力車夫、日雇い人足など、下層階級の人々と交流し、萩の舎時代の「ものつゝみの君」という内攻的な性格から、客あしらいの上手な下町の女性となった。

「たけくらべ」(明治28年1月)
吉原の遊郭という特殊な地に育った美登利と少年らの将来は半ば決まっていた。美登利が信如に云ひ知れぬ思ひを寄せたのは、別世界へ連れ出してくれる唯一の存在と感じたからかも知れない。少年少女から大人へ成長する過渡期の甘酸っぱい情緒を描いた名作。遊女となる美登利へ別れに添へられた信如からの一差しの造花は儚く美しい。

「たけくらべ」は少年少女の恋の目覚めを扱った作品である。子供達は一葉の店で駄菓子を買い、向かいの筆屋(文房具店)の前をたまり場としていた。

塵の中で生活する元士族の娘一葉は日記の題名を「塵之中」と改題している。

明治27年
(1894年)

22歳

【2月】23日本郷真砂町の天啓顕真術会本部へ乗り込んで相場の占い師久佐賀義孝に援助の申し込みをするが失敗。久佐賀をパトロンにしようとしたのは歌門を開くためとされているが、求めた千円(一千万円)は、それにしては大きい。萩の舎の看板料は二十円だった。28日発行「文学界」第十四号、4月30日発行「文学界」第十六号に「花ごもり」を発表する。

【3月12日】馬場孤蝶来訪。

【4月】中嶋歌子の提案により月額2円で萩の舎の助教となる。

【5月】1日、約9ヵ月で龍泉寺町の店を閉店し、本郷区丸山福山町四番地へ転居する。日記を「水の上」や「水の上日記」に改題。

【7月】1日、下谷区上野桜木町の丸茂病院で治療を受けていた従兄樋口幸作が急死し、なつ(一葉)は大きな衝撃を受ける。20日、隣家銘酒屋「浦島」小林あいが逃亡、なつ(一葉)に救済を求める。7月30日から11月30日まで「暗夜」を「文学界」に連載。

【8月】1日、日清戦争艦船宣戦布告。4日、戸川秋骨、島崎藤村来訪。

【10月】平田禿木から「帝国文庫」尾崎紅葉校訂本「西鶴全集」上下巻を借りる。

【12月】30日「大つごもり」を「文学界」に発表。文名が高まる。

「大つごもり」(明治27年12月)
山村家の女中奉公するお峰は暇をもらい育ての親である伯父の家へ帰宅する。伯父は病気の身で高利貸しから借りた金が返せず、山村家へ2円借りてくれないかとお峰に頼む。山村家へ戻ったお峰は奥様へ願い出るのだが機嫌が悪く借金が出来ず、罪を承知で大晦日に10円が納められていた金箱から2円を盗んでしまう。その後それが露見しそうになるが、「引出しの分も拝借致し候」と書かれた紙切れと引き替えに、金箱の中身を全て道楽息子石之助が盗んで行き、お峰の罪は誰にも知らずに終わる。

「日記ちりの中」2月23日
この会談をふくめ久佐賀には終始、敬称を使っていない。一葉は敬称敬語の使い方がはっきりしているので、それで相手との距離がわかる。

「花ごもり」
幼馴染みで同居するお新(一葉モデル)と與之助(渋谷三郎モデル)は互いに慕っていたが、養母は実子同様の與之助を立身出世させる為、良き縁談を持ちかけ、與之助は育ての恩義とお新への想いとに引き裂かれ決断しかねるが、周囲の計らいに従い縁談を受け入れ、お新を捨てて旅立つことになる。

「塵之中日記」3月19日
「塵中につ記」3月
「塵中につ記」3月26日
「塵中につ記」3月28日
「塵中につ記」4月
「水の上日記」6月20日
「水の上日記」7月12日

一葉の従兄弟樋口幸作の死因は病気は皮膚病であったらしい。病名は一葉の日記には何も書かれていない。一葉研究者和田芳恵氏は、幸作の疾病を「業病」(ハンセン氏病)と推測する「業病説」を唱えて大きな論議を呼んだ。一葉は父則義の不運な死、兄泉太郎の病死、三男大作の生後間もなくの死、そして従兄幸作のある病での死に、樋口家の暗い宿命を感じたに違いない。

明治28年
(1895年)

23歳

【1月】30日、星野天知の依頼により寄稿した、龍泉寺町時代の生活体験に取材し制作した「雛鶏」を「たけくらべ」と改題して「文学界」に掲載。以降1年に渡って断続的に掲載され明治29年1月30日に完結。

【4月】戸川残花の依頼を受けて「軒もる月」を3日、5日付の「毎日新聞」に発表。12日頃までに博文館大橋乙羽の依頼を受けて「ゆく雲」を制作。

【5月】5日「ゆく雲」を「太陽」に発表。

【6月】20日「経づくえ」を「文藝倶楽部」に再掲載。

【7月】上旬から「にごりえ」の制作を開始、8月2日までに「文藝倶楽部」大橋乙羽に届けられる。

【8月】20日過ぎ関巌二郎の依頼により「うつせみ」を書き上げ27日から31日にかけて「読売新聞」に掲載。

【9月】16日随筆「雨の夜」「月の夜」を読売新聞月曜付録に掲載。17日女学雑誌社の依頼を受けて執筆した「十三夜」が完成して博文館に渡す。20日「にごりえ」を「文藝倶楽部」に発表。

【10月】「青年文」田岡嶺雲と「毎日新聞」内田魯庵を始め各誌が「にごりえ」を称賛する。14日随筆「雁がね」「虫の声」を読売新聞月曜付録に掲載。

【12月】10日「文藝倶楽部」臨時創刊「閨秀小説」に「やみ夜」再掲載と共に「十三夜」を発表。22日国木田収二の依頼による「わかれ道」が完成、続いて有明文吉の依頼を受けて「この子」を執筆。

「にごりえ」(明治28年9月)
丸山福山町の銘酒屋街に住むお力。お力は馴染みの客であった源七を愛していた。 源七は蒲団屋を営んでいたが、お力に入れ込んで没落し、女房お初と息子太吉と苦しい生活をしている。源七はお力への未練を断ち切れず仕事もままならなくなり、家計はお初の内職に頼るばかりになっていた。そんな中、太吉がお力から菓子を貰って来たことをきっかけに、源七とお初は言い争いとなりついに別れることになる。お力は源七の刃によって無理とも合意とも知らない心中の片割れとなって死ぬ。 男は自らの意志で道を切開くことも可能だが、当時の女性は為す術もない。家を出たお初に残された道が、憎きお力と同じ道かと思うと仮定すると陰惨な物語となる。もの思う酌婦お力には魅力が溢れており、心理小説としての深みと一葉の精神世界を垣間見ることが出来る名作である。

「十三夜」(明治28年12月)
お関は、請はれて嫁いだ家で夫に虐げられ離縁を決意し家を出て実家へ帰ってくる。実家では両親に説得され、実家に残して来た子供太郎の為に生きようと決意して嫁ぎ先に戻ることにする。しかし帰途、偶然にも初恋の男高坂と再会する。高坂はお関の結婚を機に自暴自棄になり破滅した。お関は人力車夫に落ちぶれた高坂の姿を見て、思ひ通りにならぬ世の中を堪へ忍ぶ生き方を悟ることになる。

「軒もる月」

「みずのうえ」5月14日
「水のうへ日記」10月7日

「ゆく雲」(明治28年5月)概要
山梨県の農村から出てきた財産家の養子である野沢桂次は、東京の親戚に寄宿して通学している。 親戚宅には上杉縫(ぬい)という娘がいて、2人は淡い恋心を抱いている。桂次は勉強を切り上げて家業を継ぎ、父が決めた許嫁と所帯を持つよう催促される。桂次は自由にならない身の上と将来を嘆くが、幻想を抱かないお縫は現実を諦観して応へず、思ひ詰めた恋も山梨から届く手紙が減るにつれ冷めて行く。千切れていく雲のようにうら寂しい作品。

野沢桂次のモデルは、樋口家に出入りし父則義が身元引受人として世話した文学青年野尻理作のことであり、明治23年春、東京帝国大学を中退をして故郷へ帰る。後に野尻理作は山梨の「甲陽新報」の主幹を務め、春日野しか子名で一葉の「経づくえ」(明治25年10月)を同紙に掲載した。

明治二十八年当時、一葉は命の残り火を燃やしながら「たけくらべ」「にごりえ」と、目覚めつつある明治の女を名文に結晶させ、文名を高めていった。そのかたわら、「半井桃水・渋谷三郎(坂本三郎)・野尻理作」と書いては消した吐息のような落書きが残っているという。彼女はどんな思いでこれを書きつけていたのだろう。

「経づくえ」

「うつせみ」(明治28年8月)
想ひ人が自ら命を断ったことにより精神を病んだ女を描いた異色作。結ばれなかった亡き恋人の姿を追ひ求めて今生から逃走する狂へる女の言動が哀切極まりない。白き肌の佳人が病める情景は一種異様な美しさを湛えている。 恋人の死を受け狂人となった華族の姫様風の雪子が登場する。余談だが作中に「くら」という女中が登場する。これは紛れもなく則義の弟喜作の次女くらである。もう1人「川村太吉」という人物が登場する。「にごりえ」(明治28年9月)にも源七お初の息子「太吉」が登場、他作品にも出てくるそうだが、「太吉」の「太」の「点」を取れば「大吉」となる。何処かで聞いた名・・・。

明治29年
(1896年)

24歳

【1月】1日「日本之家庭」付録に「この子」を発表。4日「國民之友」付録「藻塩草」に「わかれ道」を発表。20日鳥海嵩香の依頼による「裏紫(上)」が完成。

【2月】5日「新文壇」に発表、続稿は未完に終わる。

【3月】肺結核を発症したが病を押して執筆に励む。

【4月】「たけくらべ」を「文芸倶楽部」に一括掲載し「めざまし草」の三人冗語、森鴎外、幸田露伴、斉藤緑雨から激賞されて、一葉の名が広く世間に知れ渡るようになり、見知らぬ人たちから援助の申し込みが来るようになる。

【5月】10日「われから」を「文藝倶楽部」に発表。25日大橋乙羽の依頼で「日用百科全書」として女性の手紙の書き方を記した「通俗書簡文」を発行、しかしさしたる原稿料の収入もなく、生活の窮乏は続き、この執筆の過労により春より進行していた肺結核が悪化する。

【6月以後】「新小説」「雪月花」「白百合」「女学草子なでしこ」「大倭心」「智徳会雑誌」等から執筆依頼が殺到し、7月20日には「めざまし草」の三木竹二、幸田露伴が来訪、他に教科書編集に協力を依頼する者も現れたが全て着手されなかった。

【7月】22日を最後に日記が途絶え病状が益々悪化する。25日随筆「ほととぎす」を「文藝倶楽部」に寄稿。

【8月】19日読売新聞が「樋口一葉女史病む」と報じる。医者嫌いであった一葉が山龍堂病院で診察を受けた時、妹くには医者から絶望を伝えられる。くにはそれを姉に知らせなかった。

【9月】喉頭まで結核に冒されて頸に湿布の包帯をして萩の舎九月例会に出席する。

【11月23日】午前11時、肺結核のため永眠。24年の短い生涯を閉じた。25日築地本願寺で葬儀か行われた。妹くには参列者を制限し、森鴎外の騎馬での参加の申し出も断り、葬儀は十余名の参列者という大変寂しいものであったという。一葉の友人伊東夏子によると、これは妹くにが、簡素な葬儀しか出来ず恥ずかしく返礼の出費を恐れて内輪にしたらしいが、高い文名を得た姉の名誉を守る為でもあったろう。

「この子」(明治29年1月)
生まれた子に愛情を注ぐ夫の姿を見てそれまで抱く事の出来なかった感情が芽生える不思議を描く。

「わかれ道」(明治29年1月)
傘屋に奉公する少年「傘屋の吉」が、針仕事で暮らすお京の家を訪ね、針仕事に疲れてしまい妾奉公に出ることにしたお京に、行かないでくれと駄々をこねる。お京が選んだ妾の人生に、吉三は哀しみを抱く。そして優しく諭すお京の手を振りほどいて吉三は出て行く。

「裏紫(上)」(明治29年1月)
「上」を発表後執筆は途絶え「中」の執筆断片がいくつか残っている。西洋小間物屋小松原東二郎の内儀となったお律が、婚前から愛を誓っていた吉岡と密通する姦通小説。後に瀬戸内寂聴氏が補作した「うらむらさき」が刊行され、樋口一葉朗読の第一人者幸田弘子氏によって舞台化される。

「水のうへ」1月7日
「みづの上」2月20日
「みづの上日記」5月2日
「みづの上日記」7月22日

「われから」(明治29年5月)
町子の母親美尾は男と密通して夫与四郎と町子を置いて蒸発する。町子は父親から財産を受け継ぎ、少壮の政治家金村恭助を婿に迎える。恭助は次第に家へ帰らなくなり妾を囲うようになり男の子も生まれる。恭助はこの子供を家の養子に取ろうとお町と口論になり、果ては町子と書生の間が怪しいという噂を理由に町子を追い出してしまう。母美尾の内に秘められた女の魔性。町子が母の罪を負ひその罰を受けたとする血の悲劇と、裏切られた父与四郎の復讐を婿養子の恭助が果たす形で意図して作品を闇に沈めている一葉の意欲作。

一葉は借金返済をしなかった為、萩の者の仲間から嫌われていた。一葉を擁護し続けた伊東夏子は「一葉の憶ひ出」で「割合に、同情させていませんでした」と述べている。一葉の香奠帳の萩の舎関係者の名には、中嶋歌子、小出粲、榊原家、田中みの子、伊東夏子、三宅龍子、中村礼子などがある。葬儀には友人代表として「平民3人組」であった田中みの子、伊東夏子が参列した。埋葬された樋口家の墓は、現在杉並区永福一丁目の築地本願寺和田堀廟所に移されている。

樋口家に残る「花紅葉一の巻」に遺言と思われるものがあったと研究者和田芳恵氏は言う。

「身はもと江湖の一扁舟、みづから一葉となのって、芦の葉のあやふきをしるといへども、波静かにしては釣魚自然のたのしみをわするゝあたわず。よしや海龍王のいかりにふれて、狂らん、たちまち、それも何かは、」

「さりとはの三分五里霧中」

家族の消息

【母たき】
過労の為、一葉の死後1年余りの明治31年2月4日65才で世を去る。

【長女ふじ】久保木長十郎と結婚し菊坂町に居住した。一葉一家が菊坂に転居したのは夫婦の手引きによると見られる。一葉が龍泉寺町に移ってからは疎遠になったらしく日記に殆ど出なくなる。明治31年9月30日、同年2月に死んだ母たきの後を追うように42才で病没した。長十郎とふじの子秀太郎は32年10月に亡くなり、長十郎は再婚したので樋口家との関わりが薄くなった。明治44年1月に亡くなり、子供が無かったので久保木家は途絶えた。

【次男虎之助】陶器の絵師として腕は良かったが病弱で、一葉の死後各地を転々とし、神戸で暫く結婚生活をしたが、妻子を残して単身帰京し、最後は目黒で大正14年3月31日60才で世を去った。

【妹くに】一葉と苦楽を共にした妹くには幸せな結婚生活を送り、11人の子供にも恵まれ、没後の一葉の日記創刊に尽力する。大正15年7月1日に52才で世を去った。

最近の一葉研究

【人物研究】一葉は生涯純潔を守った人として讃えられて来ていて、一葉研究の第一人者塩田良平氏始め多くの研究者はこの立場を取るが、塩田氏と並ぶ研究家である和田芳恵氏など懐疑的立場を取る人もいる。最近では平成8年11月出版の瀬戸内寂聴著「わたしの樋口一葉」で、半井桃水との関係で、桃水側の伝聞とか文献で月15円(当時では大金で一葉一家なら月10円で暮らせたという)を定期的に数回に亘り一葉に与えていた事が分かり、日記では一貫して否定しているが、当時桃水は経済的に苦況にあった中でのことで、両者に関係がなかった筈はないとする。また久佐賀義孝についても援助を申し込んだのに妾になれと云われ断ったと日記で散々貶しているが、実はその後久佐賀側の文献に15円渡したことが載っていて、久佐賀程の者が只で金を渡す筈がないとする。この説によると一葉は大分したたかな女性と云うことになるが、またそのような女性でなければ「にごりえ」は書けないと云う。

【作品研究】「たけくらべ」は美登利が突然不機嫌になり人間が変貌するところで終わっているのであるが、この変貌の理由として「初潮説」が定説で異論は全くなかった。ところが佐多稲子氏が「たけくらべ解釈へのひとつの疑問」(昭60/5群像(60/10講談社刊「月の宴」に収載))で大胆にも「初店説」を展開し人々を驚かした。直ちに前田愛氏が「美登利のためにーたけくらべ佐多説を読んでー」(群像60/7)で反論し、ここに大論争を巻き起こしたのである。この論争は決着を見ていないが、作家達は多く佐多説を支持し、学者研究家は従来の説を支持する人が多いようである。(平成13年7月クレス出版刊高橋俊夫編「樋口一葉たけくらべ作品論集」に前記2作品全文 他関連評論数編掲載あり)

 
平成20年4月

 
 
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