五木寛之 (いつき ひろゆき)
 昭和7年(1932)福岡県八女市生まれ。9年間各種の職業を経験したのち、昭和40年にはそれまでの仕事を整理してソ連や北欧に旅に出る。帰国後、元金沢市長岡良一氏を父とする夫人の郷里である金沢に落ち着き、「さらば、モスクワ愚連隊」(昭和41年)を執筆、第6回「小説現代」新人賞を受けたのをきっかけに作家活動に入ります。さらに42年には「蒼ざめた馬を見よ」(昭和41年)で第56回直木賞を受賞。泉鏡花文学賞制定の恩人でもあり、「朱鷺の墓」「ステッセルのピアノ」「金沢望郷歌」「浅の川暮色」など金沢を舞台にした作品を数多く執筆しています。(いいねっと金沢より)

 

井上 靖 (いのうえ やすし)
 明治40年(1907)北海道旭川に生まれ。父隼雄が軍医で任地を転々としたため、幼少期の靖は父の故郷伊豆湯ケ島で過ごします。昭和2年金沢の第四高等学校理科に入学、家業の医学を修めるつもりであったが、柔道部に入り、明けても暮れても道場で寝技の練習に没頭します。その間の自分をモデルに書いた小説が「北の海」(昭和43〜44年)です。三年生の時、ゆえあって柔道部を退部しますが、いまさら勉強生活にも帰れず、もはや医学部に進む気持ちはなく、中学を卒業してから一時離れていた文学に再び帰ります。そして昭和5年家族の期待に反して九州帝大法文学部に入ります。それから2年後に京都帝大哲学科に入学し、美学を専攻し、昭和11年卒業、毎日新聞に入社、「サンデー毎日」編集部勤務となります。昭和24年発表の「闘牛」が芥川賞を受けたことを機に、多忙な作家活動に入ります。昭和39年、日本芸術院会員に推され、51年文化勲章を受けます。平成3年(1991)83歳没。(いいねっと金沢より)

 

井上 雪 (いのうえ ゆき)
 昭和6年(1931)、金沢市石坂角場3番丁に生まれる。小説家、エッセイスト、俳人。十代初期の頃から句作を始め、後に沢木欣一氏、中西舗土氏の指導をうけて文学への愛好を深めていきました。俳誌「雪垣」の創刊に参加し編集にたずさわる。作品の多くは、生まれ育った北陸が舞台で、そこで生活する女性を中心に暮らしや風習をとりあげ、懸命に生きる姿をうたいあげています。昭和55年、金沢東の廓の名妓の生涯を作品にした『廓のおんな』を発表し、大宅壮一ノンフィクション賞佳作を受賞し、全国に注目されました。平成3年、明治期北國俳壇を創設した直野碧玲瓏をモデルにした『紙の真鯉』で泉鏡花記念金沢市民文学賞を受賞、その地位を確かなものにしました。仏教の教えに学び、宗教色の濃い随筆集『白き道あり』を発表する。(石川県立図書館HPより)

 

鶴 彬 (つる あきら)
 1909年1月1日生まれ(戸籍上、実際には前年12月といわれている)。日本のプロレタリア文学の影響をつよくうけた代表的な反戦川柳作家である。石川県河北郡高松町(現かほく市)生まれ。本名、喜多一二(きた かつじ)。1938年9月14日没。

 

高橋 治 (たかはし おさむ)
 1929年5月23日千葉県生まれ。小説家、劇作家。元松竹映画監督。金沢の旧制第四高等学校を経て、東京大学文学部卒業。(財)白山麓僻村塾特別顧問。84年「秘伝」で直木賞を受賞。88年任意団体「白山麓僻村学校」(僻村塾前身)を創設。96年「星の衣」で吉川英治文学賞。「派兵」(朝日新聞社)、「絢爛たる影絵 小津安二郎」(文藝春秋)、「風の盆恋歌」(新潮社)、「春朧」(日本経済新聞社)、「純情無頼 小説阪東妻三郎」(文藝春秋)他多数。

 

加能作次郎 (かのう さくじろう)
 明治18年(1885)、陸の孤島とも言われた厳しい自然環境の能登外浦で生まれました。そこは海でしか生活の術のない貧しい小漁村で、極貧の漁師の家庭でした。生まれて間もなく母は亡くなり、父が再婚し継母を迎えた後は継子が生まれ、複雑な家庭環境となりましたが、常に海を友として孤独に負けず逞しく生き抜きました。しかし、少年時代は丁稚(でっち)、下男(げなん)など異郷で苦しい生活を送りました。文学の志を立て東京に出てからは、苦学しながら早稲田大学を卒業し、幾多の試練を克服して、自然主義作家として大成しました。特筆すべきところは、昭和に入りプロレタリア文学や新時代の文学を肌で感じながらも、最後まで自然主義文学の道を捨てなかったことであります。加能作次郎の作品は、明治末期の能登外浦の漁師をはじめ人々の生活、盆踊りや富来祭などの年中行事、信仰、習俗など生き生きと情感をもって描かれており、味わい深い作品が数多く遺されています。「能登はやさしや土までも」と言われますが、加能作次郎の人柄もその通りであり興味深いものがあります。昭和16年(1941)没。(石川県立生涯学習センターHPより)

 

芥川龍之介 (あくたがわ りゅうのすけ)
 明治25年(1892年)3月1日生まれ。小説家。号は澄江堂主人、俳号は我鬼を用いた。その作品の多くは短編で、「芋粥」「藪の中」「地獄変」「歯車」など、「今昔物語集」「宇治拾遺物語」などの古典から題材をとったものが多い。「蜘蛛の糸」「杜子春」など童話も書いた。1927年7月24日未明、友人にあてた遺書に「ただぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺。35歳という若すぎる死であった。のちに、芥川の業績を記念して菊池寛が芥川龍之介賞を設けた。戒名は懿文院龍之介日崇居士。

 

池波正太郎 (いけなみ しょうたろう)
 大正12年(1923年)1月25日東京・浅草聖天町に生まれる。戦後を代表する時代小説・歴史小説作家。平成2年(1990年)5月3日没。『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』『真田太平記』など、戦国・江戸時代を舞台にした時代小説を次々に発表。江戸風の歯切れの良い文章や人情味溢れる作風が支持を得、自らが手を加えてドラマ化された作品も多い。美食家・映画評論家としても著名であった。(『Wikipedia』より)

 

向田邦子 (むこうだ くにこ)
 1929年11月28日生まれ。東京都世田谷区若林出身のテレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。1981年8月22日、エッセイ集の取材旅行中の台湾苗栗県三義で遠東航空機墜落事故に遭い急逝。享年53(満51歳没)。法名は、芳章院釋清邦。墓所は東京都府中市の多磨霊園。1981年8月22日没。テレビドラマ脚本「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あ・うん」「だいこんの花」「七人の孫」「冬の運動会」「蛇蝎のごとく」等。小説・エッセイ「父の詫び状」「思い出トランプ」「眠る盃」等、多数。(『Wikipedia』より)

 

高田 宏 (たかだ ひろし)
 1932年生まれ。京都府京都市出身で石川県加賀市育ち。石川県立大聖寺高等学校、京都大学文学部仏文学科卒業。光文社、アジア経済研究所で雑誌編集を経て、エッソ石油広報部でPR誌「エナジー」を編集し、PR誌を越えた雑誌として評価された。その後、文筆専業に専念となる。代表作に『鳥焼け』などの歴史小説をはじめ、樹木・森・島・旅・雪などの自然、猫などをテーマに随筆・評論・紀行など著書百冊ある。その他には日本ペンクラブ理事、将棋ペンクラブ会長、石川県九谷焼美術館館長、深田久弥山の文化館館長をそれぞれ務めている。息子の高田尚平は将棋棋士。1979年に『言葉の海』(言語学者・大槻文彦の評伝)で大佛次郎賞と亀井勝一郎賞受賞。1990年に『木に会う』で読売文学賞受賞。(『Wikipedia』より)

 

中原中也 (なかはら ちゅうや)
 明治40年(1907)山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれ、幼年期は、陸軍軍医であった父に従い、旅順、山口、広島、金沢に移り住みます。金沢へは明治45年・大正元年に当時寺町の奥にあった歩兵三十五連隊付軍医として赴任した父と共にやってきて、それから3年、寺町の松月寺前に住み、北陸英和幼稚園に通います。その時の様子をのちに「金沢の思ひ出」(昭和11年)に執筆し、またその頃の思い出を歌った「サーカス」(昭和4年「山羊の歌」所収)はにし茶屋街に近い神明宮の祭礼の風景だといわれています。昭和9年、処女詩集「山羊の歌」を発表し、この前後から幾つかの刊行誌に詩を発表したり、「四季」や「歴程」の同人になり、詩人としての地位を確立し始めます。しかし、12年に第二詩集「在りし日の歌」を編集しますが、その刊行をみないまま、昭和12年(1937)結核性脳膜炎のため30歳で亡くなります。(いいねっと金沢より)

 

四方健二  (よも けんじ)
 石川県鳳珠郡能登町小木出身。1967年11月15日生まれ。1974年旧内浦町立小木小学校入学。1975年国立療養所(病院機構)医王病院入院。石川県立医王養護学校小学部転入。1980年同校中学部進学。1983年同校高等部進学。1993年詩・文集『軌跡』出版。2000年詩集『雫』出版。2005年詩集『羅針盤』出版。(四方健二作「羅針盤」郁朋社より)
ホームページ「SAIL」 http://www2.spacelan.ne.jp/~deepblue/

 

水芦光子 (みずあし みつこ)
 大正3年(1914)、金沢市の浅野川小橋界隈の箔商の家に生まれ、昭和6年石川県立金沢第二高女を卒業しています。初めのうちは詩に専念し、室生犀星に師事して詩集「雪かとおもふ」(昭和21年)を発表します。のちに小説執筆を始め、「米と花の小さな記録」(昭和30年)で注目を浴び数々の作品を発表します。なかでも「雪の喪章」(昭和34年)では高い評価を得ています。卯辰山には水芦光子詩碑が建てられています。(いいねっと金沢より)

 

夏目漱石 (なつめ そうせき)
 1867年2月9日(慶応3年1月5日)江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)に生まれる。1916年12月9日没。小説家、評論家、英文学者。本名、金之助。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の大文豪である。俳号は愚陀仏。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後に東京帝国大学)英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後東大講師を勤めながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊つちやん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)まで発行された日本銀行券千円券に肖像が採用された。(『Wikipedia』より)

 

半村 良 (はんむら りょう)
 1933年10月27日東京都生まれ。小説家。本名清野平太郎。東京都立両国高等学校を卒業後、職を転々とした。1962年 第2回SFコンテストに入選『収穫』、1972年第3回星雲賞(日本長編部門)受賞『石の血脈』、1973年第1回泉鏡花文学賞受賞『産霊山秘録』、1975年第72回直木賞受賞『雨やどり』、1988年第9回日本SF大賞受賞『岬一郎の抵抗』、1993年第6回柴田錬三郎賞受賞『かかし長屋』、2002年3月4日、肺炎のため死去。享年68才。

 
 
 
 
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