徳田秋聲作「北国の古い都」  
 
徳田秋聲記念館学芸員 大木志門
 
     
 

 大正元年12月の「秀才文壇」に発表された、秋聲が郷里金沢について書いたエッセイである。
 秋聲の誕生は廃藩置県と同じ明治四年であるが、「とんでもない時代に生まれてきた」と、彼は自伝小説『光を追うて』の冒頭に感慨深げに書き込んでいる。徳田家が貧しい武士階級であったことは、江戸から明治への社会変動の波をもろにかぶることとなった。老齢の父は官職に就かず、長兄も弁護士試験に失敗するなど、秋聲の金沢時代は貧困との闘いであった。そして苦難の中、何とか滑り込むことの出来た第四高等中学校を中退し、新時代の文化の象徴である「文学」を志して上京することになる。それはこのエッセイのタイトルであるように、「古い都」を捨てて(秋聲の中ではむしろ追い出されたような気持ちであったろうが)、新しい都である新開地=フロンティアとしての東京へと乗り出すことであった。
 そのような秋聲の、郷里金沢に対するアンビバレンツな感情を象徴するのが、作中に登場する「見ているのが、苦しくてならない」北陸の海の姿である。しかし、同時にここに描かれる金沢の四季の移り変わりは美しく印象的で、金沢への深い愛情がうかがえるのである。

 
 
 
  徳田秋聲作「私」  
 
徳田秋聲記念館学芸員 大木志門
 
     
 

 この作品の「私」とは誰であろう。どうも作家その人とは異なるようである。読み進めるとどうやら女性であることがわかる。東京駒込に住んでいて本郷にも出向くあたり、モデルは秋聲の知人の一人かとも推測される。だが、この作品に限って言えば、「私」が特定の誰であるかは問題ではないのだ。
明治38年1月の「文芸界」に発表された本作には、はっきりと時代の刻印が押されている。冒頭に「遼陽が全く落ちて了ったという公報の号外が、燃えつくように町から町へ叫びまわる」晩とある。すなわち日露戦で日本軍がクロパトキン率いるロシア軍を退け、遼陽を陥落させた明治37年9月4日の夜ということである。その歓喜に満ちた宵にあって、他の人々のように戦勝に酔いしれることの出来ない「私」の事情が徐々に明かされてゆくことになる。
 遼陽会戦は日露両軍で4万人以上の死者を出し、その後も翌年の終戦まで近代日本史上、未曾有の犠牲者を生み出してゆく。本作は、旅順攻囲戦に加わる弟を思い「君死にたまふことなかれ」を明治37年9月に発表した与謝野晶子に呼応するものである。すなわち「私」の語りとは、「公」あるいは「世間」に対する、名も無き無数の「私」たちの声なのである。

 
   
  徳田秋聲作「放火」  
 
徳田秋聲記念館学芸員 大木志門
 
     
 

 本作は明治39年8月に雑誌「新国民」に発表されている。短編と言うよりは掌編というのがふさわしい短い作品である。
 本人には何の罪もないにかかわらず、父親が犯罪者であるゆえに辛酸をなめさせられてきた少年・力三。人殺しの子としてまたしても奉公先を出され、八方塞がりとなった果てに、智慧がないゆえに何の罪の意識もなく、父と同じような犯罪者へと足を踏み入れかける(力三の身がどうなったかは実際に作品を聴いていただこう)。
 本作はいうなれば自然主義の文学理論の秋聲なりの実践篇と位置づけられるだろう。つまり、先代から受け継いだ生活環境、あるいは生育した環境が人間にどのような影響をもたらすかということである。秋聲の筆はそのような自然主義的の観察の冷酷さの中に、少しの人情をまぶして作品を成立させている。このような習作を経て、やがて『新世帯』や『黴』などの名編が誕生することになるのである。

 
   
  徳田秋聲作「夜航船」  
 
徳田秋聲記念館学芸員 大木志門
 
     
 

 「夜行船」は秋聲の自然主義初期の作品だが、実は隠れた名編である。明治39年9月の「新潮」に発表された。当時、東京の隅田川河口の霊岸島(現在の中央区新川付近)から出て横浜・横須賀・浦賀などを経由して千葉の館山まで結んでいた房州航路を扱った作品である。
 秋聲自身の房州行きに材を取ったと思われる、語り手の「私」が船上で出くわした老婆と年の離れたその娘二人のエピソードをスケッチ風に切り取ったものである。傍若無人に振る舞う老婆や多情な姉娘らの姿は醜悪ではあるのだが、同時にどこかユーモラスで憎めない。房州訛りの会話も生き生きとしており、旺盛なる庶民の生命力を巧みに写し取っている。伝聞調でわざとぼかした結末も見事で、人の世の哀切をしみじみと感じさせてくれる。秋聲は本作以外にもいくつか房州ものを残しており、当時の東京から最も身近な異境であった房州は、秋聲に物語の力を吹き込んでいたのである。

 
     
 
(2009年3月6日〜3月22日 2009朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
     

 
     
   
   
  泉鏡花作「高野聖」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 冬の夜の敦賀の宿。若狭に帰省する若者が、東海道線の車中で道連れになった旅僧(実は宗門名誉の説教師)から、僧が若い頃の不思議な体験を聞く話。ある夏、僧は飛騨から信州へ抜ける峠越えで人跡絶えた旧道に迷い込み、山蛭の森や蛇の道を抜け、山中の孤家に暮らす妖しい女に出会った。一夜の宿を請うた僧だが、蟇や獣が女にまつわりつくなど不可思議な光景を眼にする。女や身のまわりの世話をする親仁の怪しげな言動を訝しく思いながらも、言葉も身体も不自由でまるで子供のように無垢な夫を優しく世話する女の姿に胸を打たれる僧。翌日、一度は孤家を去ったものの、引き返して女とともに生涯を送ろうと思い定めた僧だが、昨夜の親仁に行き会い、諭される。孤家の女は魔性であり、女に対して煩悩を抱いた者は悉く蟇や獣に変えられる、谷川で女に抱きついた獣たちも、もとは女に邪念を抱いた男たちだというのだ。僧が一散に山道を駆け下りると、孤家と俗世を隔てるように山は激しい驟雨に包まれるのであった。
 鏡花の幻想小説の代表作として知られる作品。鏡花が上京時にたどった山越えの体験や、友人の見聞などが多分に織り込まれた作品としても注目されている。

 
   
  泉鏡花作「湯島の境内」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 原作は小説「婦系図」。小説には存在しないお蔦主税の別れの場面を、湯島天神境内を舞台に戯曲に仕立てたもの。小説が発表された翌年の明治41年に同作が初演された際にこの場面の原型が作られたが、大正3年の上演の際に俳優らに請われ、従前の舞台を取り入れつつ鏡花自らこの一場を戯曲化し、成立した。演劇「婦系図」の見せ場として有名な場面である。

 
 
   
  泉鏡花作「化鳥」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 橋のたもとの小屋で母と二人、橋銭を取って暮らす少年廉。人も動物も植物も皆同じだという母の教えに感化された彼には、橋を渡ってくる人々が色々な動植物に見えてくる。彼のそのような考えは時に不興を買うこともあったため、母からそのことをあまり人に言わないようにと諭されていた。そんな廉は、以前に川で溺れかけたことがあった。母は彼を助けてくれたのは「五色の翼のはえた美しい姉さん」だと教えた。廉はそれは実は母だったのではないかと思い、もう一度川に落ちて確かめてみようとかと考えるが思い直す。「まあ、いい。母様がいらっしゃるから。母様がいらっしゃったから。」少年の独白体で綴られた美しい物語である。

 
 
   
  泉鏡花作「山吹」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 二場からなる戯曲。第一場。春の花が咲き乱れる修善寺温泉の裏路。小糸川子爵夫人・縫子は、万屋で泥酔する老いた人形使・辺栗藤次の傍らにある静御前の人形に見入る。そこに来合わせ同じように人形に眼を留めた画家・島津に、縫子は宿の者に実は島津の妻であると嘘をついた事を話す。「悪戯」と笑って済ます島津だが、追われる身である自分と目くらましのためにともに連れ立って欲しいという縫子の申し出には「迷惑です」と断ってしまう。失意の縫子は、人形使の老爺に「何の望みもない身だから、お前の望みを叶えさせて欲しい」と告げる。人形使は何も言わず、縫子を樹立に招いていく。第二場。縄に縛られたように装い、跪いて縫子に折檻を頼む人形使。言われるままに傘で打つ縫子を止めに入った画家に、人形使は若い頃に女性を虐げた罪障を償うため、同じように美しい女性による責め苦を願っていたと話す。願わくばこれからも縫子の苛責を受けたいという人形使の言葉に意を決した縫子は、実は自分は画家が贔屓にしていた料理屋の娘であり、婚家の仕打ちに耐えかねて家出してきたと打ち明け、島津への秘めたる思慕を告白する。島津への思いが叶わぬ今、人形使の願いを受け入れることで女として生まれた誇りと果報を受けたいという縫子。腐った鯉を肴に人形使との婚礼の儀式をし、縫子は「世間」に別れを告げ、人形使とともに去っていく。残された画家は一瞬迷いを見せるが、「いや、仕事がある。」とその画業のために踏みとどまる。
 大正12年「女性改造」に発表。後に三島由紀夫が澁澤龍彦との対談において絶賛したことでも知られる。平成18年7月には東京歌舞伎座において異例の上演を果たし、注目を集めた。

 
   
  泉鏡花作「義血侠血」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 高岡から石動に向かう乗合馬車と人力車の競争に巻き込まれた水芸の太夫・滝の白糸は、馭者・村越欣弥の謹厳たる様子に心惹かれる。後日、浅野川の天神橋で偶然欣弥と再会した彼女は、彼の不遇と学問への高い志を知り、学資の援助を申し出た。欣弥は白糸に「決してもう他人ではない」と誓い、法律を学ぶため上京する。以来、これまでの奔放な生き方を改め、必死に学資を稼ぐ白糸だったが、三年後の夏の夜、やっとの思いで稼いだ金を南京出刃打に奪われ、途方に暮れて兼六園をさまよい歩くうち、不意に迷い込んだ家で心ならずも強盗殺人を犯してしまう。事件の嫌疑は白糸を襲った出刃打にかかるが、白糸も参考人として法廷に呼ばれる。そこで彼女が目にしたのは、志を遂げ検事代理して法廷に現れた欣弥の姿だった。事件との関わりを否定してきた白糸だったが、欣弥の諭すような尋問に、ついに自らの罪を自白する。欣弥は白糸を殺人罪で起訴して職務を全うするが、白糸に死刑宣告が下された日、自殺する。
 明治27(1894)年、「読売新聞」に作者名「なにがし」として連載された、鏡花のいわゆる「観念小説」の代表作の一つ。その自筆原稿には師尾崎紅葉による添削の跡がいちじるしく、同28年の単行本収録も紅葉との連名で行われ、当時は紅葉作とみなしていた人々もいた。川上音二郎によって「滝の白糸」の外題で舞台化されて以降、数々の上演を重ね、「新派の古典」として現在に至っている。

 
   
  泉鏡花作「朱日記」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 小学校の教員雑所は、小使いの源助を呼び、不思議な体験を語り始める。昨夕、採集に出かけた山で夥しい数の赤い猿が蟻の行列のように通る様子に驚いていると、裸に赤合羽を着た坊主が現れた。声をかけたところ、「城下を焼きに参るのじゃ」と答えたという。恐ろしくなって逃げるように帰ったが、一夜明けると朝から風が吹き荒れ、しかも授業の読本には「消火器」の説明がなされている。そのうえ教え子の宮浜浪吉が、7日程前から見かけるようになった「姉さん」が来て今日は大火事があって危ないから早く帰るように言われたというのだ。その女は自分があるものに身を任せないばかりに、その面当てに町を焼かれるのだという。どういう因縁か、雑所先生はちょうど一週間前から不意に朱筆で日記をつけ始めていた。しかも「風」や「火」に関連する文字が目に付く…。すると正午、一斉に早鐘が鳴り響き、町はあっという間に大火に襲われる。多数の死傷者が出たが、なぜか浪吉に降りかかる火の粉ばかりは、袖へ掛かっても雪のように消えるのであった。

 
   
  泉鏡花作「蛇くひ」  
 
泉鏡花記念館学芸員 穴倉玉日
 
     
 

 北陸のある町には「応」と呼ばれる貧民集団が出没する。彼らは軒ごとに米銭を求め、何も与えなければあてつけに生きた蛇を食い散らして汚す「蛇食」の芸を披露する。彼らは蛙やとかげ、糞汁などを最も好み、特に茹でた蛇をうず高く積んで珍重する様子は身の毛もよだつばかりである。
 しかし、この「応」は常に現れるものではない。突然町を横行したかと思えば、米銭を得たときには「お月様幾つ」と童謡を叫んで不浄を改め跡形もなく走り去る。まことに神出鬼没である。
 都会人よ。もしこの話を疑うならば、上野から汽車に乗ってこの北国の町を訪れてみるがいい。「応は?」と問えば、人々は口を開くまでもなく、皆顔色を変えてその問いに答えてくれるであろうから。
 そういえばあの童謡も、「応」が現れる直前にこの地に伝わり始めたという。新たな童謡が伝わり始めたら、それはそこに「応」が現れる前ぶれなのかもしれない…。

 
     
 
(2009年3月6日〜3月22日 2009朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
     

 
     
   
   
 
室生犀星作「寂しき魚」
 
 
室生犀星記念館学芸員 嶋田亜砂子
 
 
 
 

 大正9年12月、「赤い鳥」に掲載された童話です。「赤い鳥」は子供にも芸術的な作品を読ませようと呼びかけた児童向け文学雑誌で、多くの著名な文学者がここに童話を寄せました。犀星のこの作品は、遠いあこがれの世界を持ちながら、そこへ行く手段をもたず、ただ年老いていく魚の悲哀が描かれています。同9年7月に「婦人之友」に同主題の長編詩「魚」が発表されており、これを、童話として書き直したものと思われます。
 古い沼に住む、古い大きな魚が、夜になると遠くに見える市街の光に憧れて、岸にすり寄ってみたり、岸の土を食べてみたりもするけれども、どうしてもよじ登ることができません。毎日、「あの明るい賑やかなところはいったいどこのあたりにあるのだろう」「おれはいつそこへゆけるのだろうか」と考えてばかりいます。

 
   
  室生犀星作「万花鏡」  
 
室生犀星記念館学芸員 嶋田亜砂子
 
     
 

 「杏の花」「桃」「さくら」「李(すもも)」の4話からなる童話で、「少女倶楽部」という雑誌に、大正15年4月に掲載されました。小さな生き物を慈しみ、よく観察し、その対象になりきることを得意とした犀星は、動物や魚を擬人化して描いた童話や小説を数多く残しましたが、そのなかでも、これは樹木を擬人化した、異色の作品です。春先に蕾を開くまでの小さな変化に色気の漂う杏の木、毛虫がきらいな桃、花のない木をうらやむ孤独なさくら、陰気な性分の李と、フィクションではない、犀星自身の観察から描き出された木の本当の姿が伝わってくるようです。

 
   
  室生犀星作「蝿と蟻との話」
室生犀星作「蘇った蝿 ー蝿と蟻との話その2ー」
 
 
室生犀星記念館学芸員 嶋田亜砂子
 
     
 

 大正11年、「小学男生」3月号に「蝿と蟻との話」が、4月号にその続編「蘇った蝿−蝿と蟻との話、その二」が発表されました。冬を迎えて弱っていく蝿と、穴の中から心配する蟻、続編では春を迎えた両者のやりとりがほぼ会話文のみで構成される、戯曲です。
 犀星は数多くの童話を発表していますが、なかでも小動物を主人公とした童話では、身近な動物に対するあたたかく、そして鋭い犀星の視線がよくあらわれ、独得の世界をつくっています。小さな動物に対して、「動物の思ふままの生活のなかにも、それぞれの真実さや思ひ遣りが」ある、と感じていた犀星によるリアルな虫の世界に、思わず「虫たちは、こんなことを考えていたのか」と引き込まれてしまう作品です。

 
   
  室生犀星作『忘春詩集』より
「道草」「我が家の花」「あきらめのない心」「おもかげ」
 
 
室生犀星記念館学芸員 嶋田亜砂子
 
     
 

 大正11年6月、生まれたときから病弱だった犀星と妻とみ子の長男豹太郎が、1歳1ヶ月でとうとう亡くなりました。悲しみが日を追うごとに深くなっていくなか、犀星は「筆さへ執れば子供のことばかり書いてゐた」と記しているように、小説「童子」「後の日の童子」など、次々と亡き子を悼む作品を発表していきました。詩「我が家の花」「あきらめのない心」「おもかげ」は、「詩と音楽」(大正11年10月)に発表した、そうした長男への哀歌です。
 「道草」は、「新潮」(大正11年5月)に発表の詩で、妻子をもつ家庭人となった犀星の、つれづれな心持ちをあらわしたものと思われます。「家庭」とは何か、「夫婦」とは何かと模索しているようにも思えます。

 
   
  室生犀星作「小景異情」  
 
室生犀星記念館学芸員 嶋田亜砂子
 
     
 

 「小景異情」は、その一からその六までの六つの詩編からなっています。その一からその五までは、大正2年、北原白秋の主宰する雑誌「ザンボア」ではじめてとりあげられ、犀星が詩人として世間の注目を集めるきっかけとなりました。のちに大親友となった萩原朔太郎も、これらの詩に感動し、犀星に手紙を出して交流がはじまったのです。
 いずれも、故郷金沢にてうたった詩です。「その二」は、誰もが一度は聞いたことのある「ふるさとは遠きにありて思ふもの…」で、故郷は、落ちぶれて帰ってくるべきところではない、どのようなつらい暮らしが待っていようとも、再び東京で踏ん張らなければならない、という決意をこめた望郷詩です。
 犀川の詩碑にも刻まれている「あんずよ花着け…」は「その六」で、これは大正3年、「創作」という雑誌に発表されました。このときは、「光耀」と題され、「萩原朔太郎とともに祈れる」と注が記されていました。

 
   
  室生犀星作「老いたるえびのうた」  
 
室生犀星記念館学芸員 嶋田亜砂子
 
     
 

 昭和37年3月26日、犀星は病院にて72才の生涯を閉じました。この入院の4日前、2月25日に編集者に渡された最後の原稿がこの詩で、「婦人之友」(昭和37年4月)に掲載されました。長女朝子の記憶によると、決して原稿を遅らせたことのない犀星がはじめて記者を待たせ、完成させた絶筆の詩です。
 同時に執筆中であった小説原稿(のちに「好色」と題す)は入院先にも持って行きましたが、病魔により手のしびれがひどく、すでにペンを持つことができませんでした。残されたこの原稿を見ると、最後のほうは細く波打っていて、ペンを取り落としたような、インクの筋がいくつも残されています。
なお、この詩について、長女朝子は、数年前に頂きものの伊勢海老を茣蓙の上に30分も遊ばせて見ていた犀星の姿をイメージするとしています。

 
     
 
(2009年3月6日〜3月22日 2009朗読で綴る金沢文学 公演パンフレットより)
 
     

 
 
 
   
   
  松田章一作「雛納い」  
 
演劇評論家 野村 喬
 
 
 
 

 「雛納い」は最も良く出来た作品だと思うが、昭和初年に岸田国士が「明日は天気」や「隣の花」などの家庭喜劇と実に造型性も筆致も似ている。その岸田は、戦後に「椎茸と雄弁」「道遠からん」などの”何かを言うための喜劇”を発表しているのとも、三扁の松田作品(「雛納い」「酸いも甘いも」「花石榴」)は何処かで似た雰囲気がある。
 誰も彼もが、高齢化社会近しと叫ぶけれども、明治初年に日本から送り出された”からゆきさん”が、小さな日本列島に三千万人は住めないと棄てられた人々であり、明治三十年からアメリカへ、メキシコへ、ハワイへと送られた移民もまた棄てられた人々だったことを思い出す必要があり、遙かな昔には姨捨山があったことを想起すれば、結局は現代版の姨捨山や棄民の装置を案出することになる点には、まだ気付いていないと言われなければならない。それをまさしく指弾した三扁であろう。

 
     
 
(1990年5月8日発行 鏡花劇場公演パンフレット「松田章一の老年物三部作」より)
 
     
 
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