バランスのよい朗読を目指して 表川なおき |
「朗読が静かなブーム」と呼ばれてから6年が経った。朗読はなぜ現代人に愛好されるようになったのだろう。朗読は自己表現活動にもなり、作品の魅力を聞き手と共有できる暖かな文化行為でもある。朗読を行うには資格や性別、年齢制限もない。朗読する作品と朗読者があれば、照明や音響効果も加えて朗読公演も開催できる。舞台美術で大宮殿を製作する必要もなく、観客の想像力を掻き立てる最小限の舞台美術で十分、場合によっては身ひとつで朗読舞台を成立さることも可能だ。この身軽さが朗読の強みとなり各地で朗読グループや朗読者が生まれ朗読会が頻繁に開催されるようになった。聞き手は朗読者の声と対峙してイメージを膨らませながら作品世界を構築していく。これは必要最小限の表現で観客の想像力に働きかける朗読の特性かも知れない。朗読がひとつのジャンルとして広く認識されるようになったのは5、6年前の話で、「朗読が静かなブーム」と紙面に踊ったことを皮切りに、朗読会開催の情報が報道機関によって定期的に発信されるようになった。朗読グループや個人朗読者は年々増え続けて、演奏家と朗読者とのコラボレーション公演も開催されるようにもなった。朗読は今、静かな全盛期を迎えているかのようだ。 メディア番組の中でナレーションを担当する声の主を紹介する際に、名前の前に「ナレーション」という肩書きを付けて紹介する。最近ではこの「ナレーション」に加えて時々「朗読」「語り」という肩書きをつけて紹介されることがあることにお気づきの方もおられるのではないだろうか。今まで耳慣れてきたナレーションが「朗読」や「語り」とはっきり識別され表記さるようになったのには、その番組のプロデューサーや演出家の意図が反映されているはずだが、そのメディア番組で識別された「ナレーション」「朗読」「語り」の声や表現の違いを聞き分けることは高度なことかも知れない。ラジオとテレビの世界には「ナレーション」「朗読」「語り」という識別が存在している。ひと昔前はラジオでもテレビでも「朗読」や「語り」とあえてテロップ等で前置きをして表現されることは少なかったような気がする。念のため「ナレーション」「朗読」「語り」の違いを辞書で調べてみよう。 【ナレーション】 これによると「ナレーション」と「語り」はかなり近しい間柄に思えるが、「語り」には能・狂言・歌舞伎・演劇など伝統芸能、舞台芸術の世界も含まれており、躍動感溢れる歌舞伎の名台詞や語りのことを名ナレーションと呼ぶことはあまりない。「朗読」は「詩」や「小説」など読み手とは別人(又は自作詩・小説)が書き記した題材に対して行われるものと言えそうで、辞書では「朗読」のことを「ナレーション」とは言わないようだ。 郷土に伝わる民話の語り部さんの「語り」とは何なのか。これは日本古来から伝承されて来た貴重な「伝承語り」であり、脈々と語り継ぐべき郷土文化の最前線だ。民話には「ナレーション」や「朗読」という識別はなく「語り」という表記を欲しいままにでき「語りワールド」の先住民として不動の地位を築いて来た。ではこの敬意を表すべき古来民話系「語り」に対して、未来からやって来た朗読グループ・個人朗読者系「語り」や、メディア系「語り」や、コラボレーション系「語り」は、その始祖から「語り」の神髄を学んで行くことは大切なことではないだろうか。デジタル文化が盛り上がりを見せれば、対するアナログ文化も盛り上がりを見せる。私たち朗読の世界に関わりを持つ者は、人から人へ肉声で伝えるアナログ方面をまっしぐらに進んでいる。だから「ナレーション」から枝分かれした「朗読」と「語り」ではなく、「語り」から枝分かれした「ナレーション」や「朗読」として認識しても的外れにはならないだろう。語りの芸術には「民話」の他にも「落語」や「古典芸能」など堂々たる存在がある。新ジャンル「朗読」にとっては大先輩にあたる。縄文時代まで遡ると豊作を願い祈祷師による祈祷や舞が捧げられ、やがて文字が生まれ謡いが生まれ能楽が生まれ語りが生まれ、寺社芝居が盛んになり歌舞伎が流行して、邦楽が生まれ流行歌が生まれ漫才ブームが起こり・・・と無数に枝分かれをしながら新ジャンル「現代朗読」は生まれた。 私も朗読の世界に関わって来てこれまで解らないなりにあらゆるアプローチを試みながら「朗読とは何か」を考えて来た。しかし「朗読」が盛んになって来た現代において「正しい朗読とはこういうものだ」といつまで経っても定義出来ないでいる。親子読み聞かせに始まり、図書館での読み聞かせグループや、各地の読書会、芸能界、演劇界、詩人界、テレビ界、ラジオ界、個人朗読者、市民団体など多方面から「現代朗読」への参加が増え続けている。多方面から集結しているのだからそれぞれの特性があり表現の仕方も様々だ。誰が一番正しい朗読をしているか定義し合い競い合う必要はないが、聞き手である観客に対してより良い朗読を届けるために互いに磨き合うことは大切なことに思える。 私は聞き手に伝えるための発声・発音・アクセント・イントネーション補正にはかなりうるさい耳を持っているが、そういう技術的なことにあまり重きは置かない。文学作品を遺した作家の多くは未来に自分の作品が朗読されることなど思ってもみなかっただろうし、仮に朗読されるであろうと思っていても「この作品は正しい発声・発音・アクセントで朗読してくれなきゃ困る」などと作品に注意書きを遺していることもない。もちろん何を言っているか分からない朗読を目指しているのではなく、技術や自信で凝り固まった自分を作品に押しつけてしまうと作品は遠く離れていく気がするのだ。作品はその作家のものであって決して自分のものにはならない。その作品の真の姿を知っているのは作家だけなのだから、ある程度まで理解出来たとしても完全にものにすることは不可能だ。だから強引に自分から作品に圧力をかけ続けていると作品は自分から離れて行き、結果自分に都合の良いような作品に成り果ててしまう。だからその作品世界を忠実に再現する仕事を担っている立場であることを再認識して「作品を朗読する」のではなく、謙虚に日々鍛錬しているうちに自身が「作品になっていた」となれたら理想的だ。作家と作品に素直に向き合っていれば、作家と作品は向こうから近寄って来てくれると私はいつも信じている。作家は心血注いで独自の世界を書いて書いて書きまくった。その命が宿った作品に対して現代朗読者が行うべき朗読のあり方、取り組むべき姿勢とはどうあるべきなのだろうか。 「朗読」に取り組む際に「発声・発音・アクセント・イントネーション補正」を意識する経験をお持ちの方も多いのではないだろうか。自信がある方には無縁の話かも知れないが、個人差はあるにしても「朗読」を志す者には避けて通れないひとつの関門となっている。しかしこれは克服すべきものなのかも知れないが、私はこれまで述べて来た通り必ずしも克服しなければならないとは考えていない。左図「朗読の三要素」は「朗読」に対する私のイメージを図表化したものだ。未熟な私の考えたことだから分かりづらいところが多々あるはずなので説明させて頂きたい。今述べている「発声・発音・アクセント・イントネーション補正」は「朗読」を生み出す三要素の「技術」要素に属している。この要素の中には習得しておくと効果的なものも幾つか含まれているが、作品を読み込んでいく際に「発声・発音・アクセント・イントネーション補正」ばかりに創作時間の多くを費やしていると、自ずと他の二要素「文学性」「感性」を鍛錬していく時間が減っていくことになる。 私は学生演劇から13年あまり演劇畑で育てられていた。学生時代には恩師北市邦男氏、社会人時代には恩師演出家故荒川哲生氏から薫陶を受けて演劇の道を進んで来た。荒川氏は常々「古き良き時代に歌舞伎が庶民の唯一の娯楽として生活に溶け込んでいたように」「西洋や欧米で地域の生活者が週末を劇場で過ごしているように」日本における地域の劇場文化のあり方を求めて「リージョナル・シアター(地域演劇運動)」を研究され提唱しておられた。私は氏の提唱に深く感銘した。荒川氏が不幸に見舞われ旅立たれてからは、氏の遺志を受け継いで地域演劇活動を志すようになった。ただ演劇となるとまとまった資金も必要になり、一方で社会人生活をしながらでは自然公演回数も年2回がやっととなり、地域演劇の活性化どころか悲鳴を上げながら活動を続けることが予想された。そこで私は同じ荒川氏の師弟である女優高輪眞知子と共に鏡花劇場「出前公演」(代表松田章一)という朗読劇の公演活動を展開するようになった。朗読公演ならば全てにおいて身軽になれると考えたのだ。それが朗読の世界に入る第一歩となった。第1回目の公演は泉鏡花作「湯島の境内」であった。あれから10年経ち2010年2月現在197公演達成しており200公演を目前に控えている。この地域に根差した公演活動の中で私が感じて来たことは、劇場に足を運ぶ機会の少ない方があまりに多かったことだった。 メディアの普及により各家庭にホームシアターが確立されて行くにつれて映画館は次々と姿を消して行った。演劇を含む劇場文化もその影響を少なからず受けているように思うが、演劇を取り巻く地域の劇場文化には様々な問題が課せられている。地域で活動を続ける創作者・劇団はその殆どが社会人劇団であり、仕事をしながら限られた時間を最大限に使って演劇活動に取り組まなければならない。アメリカのリージョナル・シアター(地域演劇運動)は全米に広がり、スポンサーから支援され活動しているプロの劇団が各地域に存在している。劇団では演出家、俳優、スタッフがその仕事だけに専念出来る環境を与えられクオリティの高い舞台芸術を観客に提供しており、大人の娯楽として地域生活者の豊かな文化生活を支えている。アメリカはブロードウェイだけではなくこうした地域常駐のプロ劇団、常設の劇場を整備する世界屈指の劇場文化推進国だ。日本の地域劇場では社会人劇団、セミプロ劇団が公演活動を行い定期的に中央都市出身のプロ劇団の公演も開催されている。社会人劇団は多くとも年3回、通常は年2回の公演が限度で公演日を設定するにも30日間のロングラン公演は時間的にも財政的にも難しく、どうしても短期間の日時設定となる。半年かけて作り上げた舞台作品が披露できるのが短期間となれば、観客はその半年のサイクル期間をずっと待ち続けていることになるから、毎日中央都市の劇場へ通っている方はともかく、地域の劇場へ足を運ぶ機会は既に頭打ちの状態になっていると言わざるを得ない。 鏡花劇場の「出前公演」は、公民館、寺院、学校、図書館、地域自治体が主催となって、地域住民が日常的に集う場所を音響・照明機材で劇場に変身させてお客様をお迎えする公演活動だ。言い換えるなら「劇場で観客の来場を待ち続ける」ことを辞めて「劇場が観客のもとを訪れる」ことへ切り替えた公演活動でもある。この公演活動の中で出会った観客の多くは劇場に足を運ぶ機会が少ない方々ばかりで、私は地域の人々の劇場離れは深刻な状況にあるのではないかと身をもって感じて来た。地域劇場文化は地域に生活する全ての人々を対象に提供されて行くことが望ましく、劇場で一部のファンやリピーターだけを相手に公演活動を続けていると、地域の劇場文化の発展はその固定客周辺だけに止められてしまう。劇場の外では劇場と無縁になりつつある人々が数十万人もあるのだ。じゃあどうすれば良いのか、みんなでもっと劇場に関心を持ってもらえるよう「出前公演」らしきものを展開して行けば良いのか。ホームシアターは家族や友人など特定の人と楽しむ劇場生活だが、劇場には不特定多数の人と肩を並べて同じ感動を共有する素晴らしさがある。「古き良き時代に歌舞伎が庶民の唯一の娯楽として生活に溶け込んでいたように」「西洋や欧米で地域の生活者が週末を劇場で過ごしているように」今こそ地域で活動する創作者たちは地域劇場文化について熱く語り合うべきではないだろうか。 末尾に宣伝をさせて頂くことをお許し頂きたい。昨年のバレンタインデーの日に私は「宇宙の文学」という朗読音声データ配信サイトを立ち上げた。内容は文学作品の朗読音声をネット上で配信する文化活動の一環で、ここではデジタルとアナログの融合が成されており、劇場へ足を運ぶ機会の少ない方のためにパソコンのスピーカーから朗読音声を聞くことが出来る「机上の劇場」をご用意させて頂いている。収録機材の関係で音質はご期待に添えないかも知れない。しかし浅野川倶楽部メンバーが心を込めて朗読を行い、惜しみなく協力してくれるお陰でこの活動は続けられている。現在は金沢の文豪徳田秋聲の短編60作品を無償で配信させて頂いており年内には100作品を突破する勢いだ。ご興味を持たれた方はぜひお立ち寄り頂きたい。Yahoo!検索「宇宙の文学」 平成22年3月 春風 |
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