2012.3.30 陸前高田市街地の仮置き場に集積されるがれき
 
 

 

愛おしき東北よ!

表川なおき

 

 
 

 2011年12月25日、高輪眞知子、表川なおきの2名は休日を利用して東北の岩手県へ向かった。この日は強い冬型の気圧配置の影響で日本海側では大雪が予想されていた。そのため北陸自動車道では2回も除雪作業車の作業により徐行運転をすることになり、新潟中央ジャンクションから磐越自動車道の山間の猛吹雪を乗り越えてようやく郡山インターチェンジまで辿り着いた。これだけの豪雪地帯を抜けて来たのだから、東北方面へ入るとなるともっと厳しい道路状況になるだろうと予想したのだが、不思議なことに雪はあまり見られず乾いた路面にヒュウヒュウと寒風が吹き付るような様子だった。北陸地方の冬は湿気を含んだ雪が降り、東北地方の冬は気温がマイナス数℃へ下がり粉雪が舞うという、日本海側と太平洋側ではこんなにも違うものなのかと驚くばかりだった。あの日3.11後のライフライン復旧まで、被災地ではたくさんの方々が暗闇に包まれた避難場所で体を寄せ合い厳しいマイナスの冷気と闘っておられた。そしてその被災地の様子に世界中が心を痛めていた。

 翌26日早朝、マイナス8℃で凍結した国道343号を頼って私たちは「陸前高田市災害ボランティアセンター(http://rikutaka.ti-da.net/)」にたどり着いた。午前8時より朝礼が始まり準備運動を済ませて、マッチングで紹介された陸前高田市にある私有地のがれき撤去作業に行かせて頂くことになった。出発前の打ち合わせで、活動員の方が活動に際しての心構えをご教授下さった。「被災地での復興活動は全体に収束に向かっている。しかしながらここまでになるのに実に9ヶ月もかかった。その間、がれき撤去や倒壊寸前の家屋の取り壊し、行方不明者の捜索など懸命な活動が続けられてきた。ボランティアの方も全国からたくさん集まって下さり、ようやくここまでになったのはつい最近のことで、4月、5月の頃の騒然とした時期からは随分脱することが出来た。被災された方の中には、倒壊寸前の家屋取り壊し作業の際に、持ち主が分からないということで家を壊されてしまった方もある。支援の手も行き届かず、支援待ちの状態で絶望感に包まれている方もたくさんいる。ボランティアセンターとしては、そういう支援を求める方の要請に応じて出かけて行き、いずれ重機が入りがれき撤去工事が行われるとしても、その順番を待っている方の心を少しでも和らげたい。もし作業中に被災された方に出会い、その方が話し掛けてこられたならそのお話に耳を傾けてほしい。その間作業が中断しようと構わない。毎日私たちボランティアの人間がそばにいることを見てもらえることが大切なんだ。そのことで被災された方の心を少しでも和らげたい。そんな思いを込めて作業に取り組んでほしい。現地では皆さんが何気に立っているその場所に被災された方のご家族のご遺体が横たわっていたかも知れない。だから被災された方の気持ちを第一に考えて自らの言動にも注意してもらいたい。」私たちは身の引き締まる思いを胸に出発の準備に取り掛かった。

 

 

 
     
 
陸前高田市災害ボランティアセンター2011.12.26
 
陸前高田市街地・がれき撤去作業(高輪)
 
         
     
 
10m以上の濁流が流れ込んだ場所 2011.12.26
 
発見された腕時計を確認(表川) 2011.12.26
 
         
 

 

 ボランティアセンターで調達した土木作業用具を乗せた軽トラックを先頭に、全国から集まった有志ボランティアさんたちと一緒に陸前高田市の市街地へ向けて出発した。道中では気仙川沿いに内陸部まで10kmも濁流が遡ったという痕跡を見た。塩害を受けたであろう田畑もあった。プレハブ作りの本屋、薬屋、飲食店なども道路沿いに並んでいる。すべての物が変わり果てた姿で町を占領していた震災直後の状態から一変して、市街地の多くのがれきは撤去され仮置き場へ集積されていた。陸前高田市は広範囲に被災したため見渡す限り平面地が続いていた。景勝地高田松原も一本の松だけを残して無くなっている。目的地近くの土地にポツンと並んで二つの建物が残っていた。ひとつは住宅、ひとつは醤油会社だったらしく内部の物という物は外へ吐き出されていた。がれき撤去作業のため私たちが降り立った土地は三方を丘に囲まれた集落で、現地地図を見ると広い敷地を持つ旧家が数軒建ち並んでいた場所だった。30mほど見上げる丘の上には諏訪神社という神社があり、ここまで駆け上って非難された方は助かったそうだ。その話を作業中に出会った地域の方に聞くことが出来た。濁流は高さ10m以上になって迫って来たらしい。後日その神社へ避難された方が撮影した映像を動画サイトYouTubeで見ることが出来たのだが、10m以上というよりは高さ20mにも及ぶ濁流が神社のすぐ下でうねりを見せていた。音声には「ここも危ないぞ」という声が収録されており、濁流の海が陸前高田市街地を飲み込んでいる最中の恐るべき映像であった。この映像は19秒だけ収録されていた。

 作業中に出会ったその方は、地元紙が連載する被災前のふるさとの風景写真をスクラップブックにまとめたものを私たちに見せて下さった。そこには緑の植木に囲まれた日本家屋など古き良き町並みの様子が窺われるものなど、在りし日の陸前高田の姿が残されていた。私たちはその方の大きく開かれたお眼に吸い込まれるように只々お話に聞き入るばかりだった。別れ際につい「頑張って下さい」と声を掛けてしまい自分の無神経さがつくづく嫌になった。がれき撤去作業を行う現地ではそれぞれにスコップやつるはしを手にとって作業に取り掛かった。木材、鉄屑、ガラス破片、ビニール袋の切れ端などが散らばり掘り起こすと次々と出てくる。屋敷を囲う石材たちがバラバラに地面から顔を出しているのを若い人たちが懸命に掘り起こしている。外国人留学生の姿もあった。そうやって参加者全員でこつこつと作業をしている時に、大槌町ボランティアセンターから応援に来ていた女性が腕時計を発見して僕に見せてくれた。今朝即席班長に任命されていた僕は「センターに持ち帰りましょう」と応じ、濁流で散り散りとなった物品はこうやって無くした方の手元に届くのだという重い責任を感じた。後日、がれき撤去作業に従事させて頂いたこの地域の震災直後の映像を見た。そこには家屋の柱、鉄柱、トタン屋根、自動車などが無茶苦茶に曲がり破壊された姿があった。

 

 

 
     
 
陸前高田市立気仙中学校 2011夏
 
陸前高田市立気仙中学校 2012.3.30
 
         
     
 
陸前高田市・高田松原 奇跡の一本松 2012.3.30
大船渡市街地仮設住宅 2011.12.28
 
     
 

 

 翌28日、私たちは岩手県遠野市に活動拠点を置く「遠野まごころネット(http://tonomagokoro.net/)」の活動に参加させて頂いた。活動参加には男子宿舎内掲示板に貼られている求人情報を見て、その用紙に名前を書き込むことで参加出来るというシステムで、前日27日夜に私たちが参加を希望したのは心のケアを目的とする「カフェ隊・ふれあい隊」の活動だった。活動内容は遠野まごころネットホームページにもあるように「《カフェ隊》仮設住宅の敷地内などでコミュニティの場となるカフェイベントを展開しています。同じ場所に定期的に伺い、信頼関係を大切にしながら『小さくとも長く続く』活動を目指しています。《ふれあい隊》タッピングタッチなどを通じて被災者の方にリラックスしていただく活動です。相手の背中や頭、手足などに自分の両手をあてたり、指先でポンポンと軽く触れることで、ストレスや不安を和らげて心身のリラックスを促します。」という内容で、翌日出発前にタッピングタッチの講習を受けて出発することになった。金沢から紙芝居を持って来たのでさせて頂けないかと申し出るとリーダーの方は歓迎して下さった。大船渡市街地へ向かう道中でいろいろと話をさせて頂き、本隊が年末用に全国から届いたミカン箱を大船渡市内の仮設住宅に届ける間に、リアスホールという愛称で親しまれる文化施設内の市立図書館で絵本も調達することになった。

 大船渡市街地に建てられた仮設住宅にたどり着くと施設員の方が迎えて下さった。私たちは談話室に「お茶っこ(お茶)」の用意をして「こんにちは、まごころねっとです!」と一軒一軒のお部屋に声を掛けて歩いた。こちらでは雪が降ると「雪っこ降ってきた」、風なら「風っこ吹いてきた」と言われるそうで、何とも言えない言葉の暖かみに心がくすぐられるようだった。年末ということもあり住民の方々は外出中だったため2時間ほど談話室で待機することになり、リーダーの方といろいろと話をさせて頂いた。「震災の津波によって気仙沼の冷凍倉庫が被災して、中に保管されていた冷凍サンマが流出して隣の町まで運ばれてしまった。外気に触れて解凍され腐敗したサンマの臭いに包まれた現場に行った時には、完全防備をしてボランティアメンバーと一緒に手当たり次第に大量のサンマの撤去作業にあたった。しかしそれでも追い付かずクレーン車で海底に埋めた。」ことなど、これまでの活動の様子を聞くことが出来た。遠野まごころネットの宿舎には22時消灯6時起床というルールのもと寝袋で寝起きしているボランティアの方がたくさんおられる。貯金を崩しながら活動を続ける方、食費を削り長く活動を続けようとする方、皆自分のことは後回しにして活動に専念している。その心意気には感服するばかりだ。

 夕方、外出から戻って来られた住民の方々が談話室に集まって下さった。皆さん笑顔で歓迎して下さったことが嬉しかった。3つの紙芝居をさせて頂いた。拙い私たちの紙芝居公演に笑って下さる皆さんに助けられ帰ることになったのだが、お集まりの中でただ一人、お子さんの笑顔が最後まで見られなかったことが、宿舎へ戻った後も私たちの胸を締めつけた。大船渡の仮設住宅ではせっかく金沢から来てくれたのだから紙芝居を見てあげなければ≠ニいう要らぬお気を遣わせることになったようにも思えた。振り返ると私たち2名は何も分かっていないまま、とにかく何かしなければという気持ちだけで東北へ来てしまったようだった。金沢へ帰る道のりでは全身を満たす無力感に苛まれたが、遅れ馳せながら東北へ駆け付けることができ胸の閊えがとれたような心持ちにもなった。褒められたものではないが、これが私たち2名の活動の第一歩になった。

 

 

 
   
 
2012.3.30 気仙沼市鹿折地区・気仙沼湾から約500m内陸へ打上げられた大型漁船「第十八共徳丸」
 
 

 

 2012年2月、朗読小屋浅野川倶楽部では東北被災地支援活動を行う遠征メンバーを募った。3月29日、有志メンバー12名は岩手県一関市へ向けて出発した。翌30日は気仙沼市と陸前高田市の被災地を訪問した。この「被災地」という呼び方はもうやめて「復興地」と呼ぶべきで、「被災者」という呼び方も「被災された方」と言い換えるべきだろうと思うようになった。傷を受けた仲間に対して私たちが起こすべき行動は多岐に渡る。気仙沼湾に臨む市街地一帯はがれきが撤去され、ここも見渡す限り平面地が続いていた。気仙沼の地面に降り立った時一番に感じたことは空気の違い≠セった。この場所ではその空気が余りにも透き通っているように感じた。透き通っている≠ニは変な表現かも知れない。しかし肌を吹き過ぎる風にしては何かしら風圧のようなものが足りない。滑らかにスルスルと滑って行く風だった。私たちは、もうこれだけで十分だと言うほど胸が一杯になり車に乗り込んだ。

  気仙沼漁港沿いに市街中心地へ向かう道中も凄まじい光景が広がっていた。人が住んでいる様子が見受けられず、大型の建物も骨組みだけを残して建っていたり、がれきの仮置き場には運搬用に変形させられた自動車が積まれていた。車内は息を飲んでいるのか静まり返り、視線は愛おしき復興地に注がれるばかりだった。地面が歪んで舗装されてない道を進む際は大いに車体が揺れたが、舗装工事を行っている作業員の方々の視線が「お前ら何しに来たんだ」と突き刺さって来るように感じられ、一礼して後ろめたい気持ちでそそくさと先へ進んだ。今回の旅では途中途中で写真撮影をさせて頂いた。現地の方々にとっては複雑な心境に駆られることだと思われたので、細心の注意を払って撮影をさせて頂いた。震災から1年経った今も復興地は傷付いたままであることを、たくさんの方々に広く知って欲しいという思いで撮影させて頂いた。もし私の行動が誰かを傷つけてしまったなら伏して謝りたい。

 市街中心地へ着くと気仙沼復興商店街「南町紫市場」でお弁当と土地のものを仕入れた。仮設店舗で営業を再開された老舗料亭「割烹世界」でメンバーが聞いた話によると、息子さんが金沢の懐石料理「卯辰」でご修行を積まれたそうで、金沢から来た私たちに親しみを持って下さったようだった。車に乗り再び気仙沼漁港沿いの道を進んで行くと、県道34号線沿いに大型漁船が鎮座しているのが見えてきたので一旦車を止めた。大型漁船は「第十八共徳丸」という名前で、気仙沼湾から約500m内陸に打上げられていた。リアス式海岸の地形を活かして漁業が栄えた気仙沼市では、その左右から迫る山が津波の高さを大きくしてしまった。市内を流れる鹿折川を中心に濁流が遡り、備蓄倉庫から200リットルのドラム缶約5万7600本分の油が流出したらしく、鹿折地区では大規模な火災が発生した。鎮火したのは震災発生から12日後の3月23日の朝だったそうだ。この火災の海の中に第十八共徳丸の姿もあった。今は大きな鉄骨で左右を支えられそのまま残されており、菅原茂気仙沼市長は「地域や地権者の理解を得ながら整備をし、今後の防災教育などに役立てたい」と復興記念公園の整備を検討されている。

 

 

 
     
 
気仙沼湾に臨む気仙沼市街地 2012.3.30
 
気仙沼湾に臨む気仙沼市街地 2012.3.30
 
         
     
 
気仙沼復興商店街「南町紫市場」 2012.3.30
 
気仙沼湾に臨む気仙沼市街地 2012.3.30
 
         
       
     
大型漁船「第十八共徳丸」 2012.3.30
 
         
 

 

 鹿折地区を後にして、私たちは県道34号線から国道45号線へ移り陸前高田市を目指した。30分ほど走り丘を下って視界が開けると右方向に陸前高田市立気仙中学校が現れた。その奥には奇跡の一本松が見える。陸前高田市は避難場所の高台まで比較的距離があったため人的被害が大きかった。昨年末にがれき撤去作業をさせて頂いた場所は重機が入りダンプカーが行き来していた。地元消防団の方が震災時に避難誘導された食品スーパー「マイヤ」の屋上も、連日報道番組で放送されていた陸前高田市役所も遠くに見える。そこへ近寄る勇気は私たちには無かった。2012年4月11日に警察庁緊急災害警備本部が発表した資料によると、岩手県の死者・行方不明者5,907名の方々の内、陸前高田市民の死者・行方不明者の方々は1,789名にもなる。東日本大震災で行方不明となっている方々の一日も早いご帰還と、亡くなられた方々の魂に心から祈りたい。

 翌31日は花巻市の宿舎から宮古市を目指して山あいの道を走った。2時間30分ほどで着いた。予定より早く到着したため市街地を周り宮古湾の神林木材港へ辿り着いた。港には防波堤が備えられていたようだが、津波によって破壊され水没した跡が生々しく残っていた。立ち入り禁止区域の入口の隙間から半壊した漁業施設が見えた。この日は宮古市生活復興支援センター辻さんのご尽力により2カ所の仮設住宅の訪問先をセッティングして頂いていた。遠征メンバーたちはそれぞれに考えを出し合って、お茶会と朗読と紙芝居公演に加えて足湯マッサージをさせて頂こうと準備をしていた。この仮設住宅での活動内容は、後でご紹介する遠征メンバーたちの言葉に詳しく記録されているのでご覧頂きたい。仮設住宅施設員中島さんのお話によると、宮古の景勝地浄土ヶ浜では津波が40mの高さまで上って来たので、高台であるにも関わらず人的被害が出たそうだ。中島さんはぜひ帰り道に見て来て欲しいと仰った。閉会後、私たちは浄土ヶ浜を目指した。不案内の土地だったため海岸までは行けなかった。しかし県道248号線上で停車して、宮古港に臨む港町周辺地域の甚大な被害を受けた様子を見ることになり言葉を失った。町を囲う丘の上は無事だったが平地は浸食されていた。あまりの惨さに目を伏せたくなったが、被災された方々の痛みを知り、心に寄り添えるようになるために、私たちには被災状況を目に焼き付けることが必要だった。

 

 

 
   
2012.3.31 宮古湾に臨む港町周辺地域
 
     
 

2011年05月20日 河北新報社掲載記事 
ドキュメント大震災「その時 何が」(7)残された遺体(福島・大熊)
搬送を阻む放射線/基準すらなく撤収

 東京電力福島第1原発が立地する福島県大熊町で、震災の死者とみられる男性を収容しようとした県警が遺体の放射線量が高いため搬送を断念したと、3月29日に報じた。遺体は4月1日に収容された。第1原発20キロ圏内で行方不明者の本格捜索が始まったのは、震災から約1カ月後。この間、救出の道は閉ざされ、数百もの遺体が置き去りにされていた。大熊町内、福島第1原発の南5〜6キロにある作業所の敷地内で、成人男性の遺体が見つかったのは3月27日だった。「亡くなっている人がいる」。通報を受け、福島県警の機動隊員や検視官ら15人が現場に向かった。放射能を警戒し、放射線計測班も同行した。遺体の表面の放射線量を計測すると、水で洗い流す「除染」が必要な10万cpm(cpmは放射線量の単位)を大幅に超えていた。第1原発1号機の爆発が起きた3月12日、原発から20キロ圏に避難指示が出たのを受け、県警は捜索や遺体の搬送を中断していた。圏内に入るのは緊急性が高い通報があった場合だけだ。汚染された遺体をどう扱うべきか、その基準さえなかった。機動隊員らは遺体を遺体袋に入れた上で、建物内に移し、撤収するしかなかった。男性の遺体収容を断念した後、県警は厚生労働省と対応を協議。(1)業務で放射線を扱う人の許容限度を参考に、捜索が可能かどうかを判断する(2)遺体表面の放射線量が10万cpmを超えた場合は、現場で除染してから搬送する―ことを決めた。5日後の4月1日、機動隊員や検視官、放射線計測班らが再び大熊町の現場に入った。外気から遮断して安置していたため、遺体の放射線量は下がり、除染の必要はなくなっていた。南相馬市に搬送。外傷はなく、病死と診断された。県警や警視庁が、南相馬市の南部や楢葉町など原発10〜20キロ圏で、本格的な捜索を始めたのは4月7日のことだ。大熊町や浪江町請戸など10キロ圏内の捜索の開始は14日まで遅れた。二本松署地域課の吉津敬介警部補(35)は、4月中旬から請戸での捜索に加わった。防護服にマスク。「動きを制限され、手でがれきを一つ一つどかした。放射線の数値も気になり、神経をすり減らしながらの過酷な作業だった」と振り返る。原発周辺を中心に、福島県では約10万人が避難生活を強いられた。行方不明の家族を捜す間もなく、古里を離れざるを得なかった人たちは、悔しさ、もどかしさを募らせながら捜索活動の開始を待つしかなかった。姉が行方不明になった浪江町請戸の女性(56)は「捜索に入るのが遅過ぎた」と語る。避難先の二本松市から貴重品を取りに自宅へ戻った3月下旬、持参した線量計の数値は3時間で1マイクロシーベルトにも満たなかった。「捜してあげればよかったという後悔の思いが消えない。誰のせいでもないのは分かっているが、何かに怒りをぶつけたくなる」20キロ圏にある南相馬市原町区の新川芳秀さん(61)は今月13日、避難先でDNAの生体資料を県警に提供した。津波にのまれた父親と兄の遺体は確認されたが、母親がまだ見つからない。県警によるDNA鑑定に望みを託す。「危険を顧みず捜索に当たってくれて感謝している」と、新川さんは手を合わせる。浪江町請戸で捜索した吉津警部補は言う。「もし、震災直後に捜索できていれば、助けられた命もあったのかと思うと、胸が痛くなる」県警によると19日現在、原発20キロ圏内で見つかった死者は365人。まだ約380人が行方不明のままだ。(橋本俊)(※この記事は2012年4月19日に河北新報社より著作物利用許諾を得て転載させて頂いています)

 

 

 
     
 
宮古湾神林木材港・破壊された堤防 2012.3.31
 
宮古市街地の被災したガソリンスタンド 2012.3.31
 
         
 

 

 東日本大震災により甚大な被害を受けた被災地(復興地)に対して世界中が心を痛めている。震災直後の日本人の秩序を重んじる行動、思いやりの気持ち、助け合い、譲り合い、親切心、マナーの良さが海外で話題となった。しかしその評価の裏側では火事場泥棒もあり不正が多発していたことも残念なことだった。/週刊ダイヤモンド2012年3月10日第100巻10号「だれが復興を殺すのか」掲載記事「混乱に乗じて産廃をポイ捨てごみ箱≠ニ化す被災地の現実(ジャーナリスト窪田順生氏)」より一部抜粋。「こういうものは産廃処理の常識で言えば東北でポイ(不法投棄)するのが定石。東北はもともと関東の産廃を不法投棄するスポットが多い。有名なのは岩手と青森の県境だが、震災以降はそこまで行かなくても、至る所にがれきの山がある」実はあまり知られていないが、被災地で、産廃の不法投棄が深刻化している。福島でがれき処理のボランティアをしていた男性が語る。「集積所には、明らかに津波で出ていないだろうという鉄くずなどが日に日に増えていきました。夜間も警備をしましたが無駄でしたね」(中略)行き場を失った大量の鉄鋼スラグも彼らの言うようにポイ≠ウれているのか。望まれないものを押し付ける―。このような損な役回りから東北を解放しないことには、どんな復興も意味はない。/週刊ダイヤモンド2012年3月10日第100巻10号掲載記事「放射線がゼロでなければノー 漂流するがれき広域の処理の行方」より一部抜粋。「神奈川県の黒岩祐治知事は昨年12月、岩手県宮古市の震災がれきを受け入れる意向を表明した。ところが、最終処分場のある横須賀市で地元住民の猛反対に遭い、立ち往生。1月に知事自ら住民への説明を行ったものの会場は大荒れとなった。同席した松本課長は参加者の『(放射線量が)ゼロでなければ駄目。どんなに低い数値であっても地元の線量に足し算されるのは、嫌だ』という発言を聞いて、衝撃を受けたと語る。」(※松本課長=岩手県災害廃棄物対策課)詳しくは週刊ダイヤモンド2012年3月10日第100巻10号をご覧頂きたい。東日本大震災にまつわる諸問題について深く追求を続ける週刊ダイヤモンド取材陣の精力的な取材活動には敬服するばかりだ。(※この文中内の記事は2012年4月23日に株式会社ダイヤモンド社より著作物使用許諾を得て引用させて頂いています)


2012年4月3日 北陸中日新聞掲載記事 
金沢市長に脅迫状「がれき受け入れたら殺す」

30日の消印 差出人の名前なし 東日本大震災で生じた震災がれきについて、受け入れの可能性を検討している金沢市の山野之義市長宛てに「がれきを受け入れたら殺す」などと書かれた脅迫状が届いていたことが分かった。市は金沢中署に相談し、3日午後に被害届を出す。同署は脅迫の疑いで調べる。市などによると、脅迫状ははがきで、2日午前に他の郵便と一緒に届いた。消印の日付は3月30日。表面には手書きで市役所の住所と山野市長の名前が書かれ、差出人の名前はなかった。裏面には印刷物を切り貼りした文字も交え、脅迫文が書かれていた。市長の顔写真を印刷した画像も貼り付けられ、市は「クレームを超えた悪質なケース」と判断して署に相談した。3月上旬にも同様の趣旨の脅迫状が市長宛てに届いていた。がれき処理をめぐり、市長の元にはこれまでも賛否両論のメールや手紙などが寄せられており、市長は取材に「いろいろな考え方があるのは承知している」とした上で「私の思いだけで動く問題ではない。議会などでの議論を踏まえ、手続きを進める」と述べた。市は4月に放射線、廃棄物処理の専門家や石川県の担当者らで「震災がれき受け入れ可能性検討会(仮称)」を設置。夏ごろまでに受け入れに向けた検討を重ね、周辺住民や市民の意見を踏まえた上で是非を判断することにしている。(※この記事は2012年4月17日に中日新聞社より新聞著作物使用許諾を得て転載させて頂いています)

 この記者会見で山野之義金沢市長は「オールジャパンで取り組むべきだ」という熱いメッセージを発せられた。岩手県、宮城県は少しずつ復興に向けて動き出しているのに、福島県では原発事故の影響で未だ手が付けられていない地域がある。避難を余儀なくされた方々は理不尽な現実にずっと向き合っておられる。被災された方々は私たちの仲間だ。その大切な仲間が傷を負っているのに、無関心でいたり、協力心がないことは恥ずかしいことだと私は思う。今こそ同じ日本人として、痛みを分かち合う心が求められているのではないだろうか。被災した地域のことを知っている≠セけだった頃の私は、心を痛めてはいるが、日々の自分の生活に追われていることを言い訳にして、傍観者のように眺めているのと同じだった。寝袋にくるまり復興地に身を投じる覚悟も無かった。こうしている今もどこかで仲間は苦しんでいる。すべてを失い自分だけが世界から取り残されていると感じているかも知れない。私に、復興地で過ごす方々のお気持ちをより深く分かっている≠アとが出来ていたなら、現地でもっと心に寄り添い痛みを分かち合えることが出来たかも知れなかった。私は皆さんにお願いしたい。それは、出来るだけ早い時期に復興地を訪れて頂き、愛すべき東北が傷ついた様子とその地で生きる方々の気持ちを全身で感じて来て欲しい。そうやって日本中に痛みを分かち合う心が広まって行けば、孤独と闘っている仲間の心を支えることが出来るかも知れない。同じ思いを共有出来ていたなら復興地の復旧速度も早くなるかも知れない。まさに今オールジャパン精神≠ェ求められているのではないだろうか。動画サイトYouTube(http://www.youtube.com/)には、東日本大震災の発生時に撮影されたリアルタイム映像が投稿されている。すべて避難された方々の手よって撮影されたものだ。映像は自ら大震災を体験しているかのように感じられる鬼気迫るものばかりだ。あの日何が起きていたのか、被災された方々の気持ちに寄り添うための一歩になると思う。また、NHKスペシャルで放送された「3.11 あの日から1年 仮設住宅の冬 いのちと向き合う日々」が再放送されるか、NHKオンデマンド(http://www.nhk-ondemand.jp/)で視聴が出来るようになればぜひご覧頂きたい。仙台市に拠点を置く河北新報社のウェブサイト(http://www.kahoku.co.jp/)にも膨大な数の取材記事が掲載されている。

2012年 新緑

 
     
     
 
金沢の紙芝居「いもほり藤五郎のはなし」
元気はつらつ健康体操「もしもしカメさん」
 
         
 

 

東北被災地ボランティア参加に寄せて  原 夏美

 私が宮古市の皆様に教えて頂いた事・・・・「磯ラーメンがすご〜くおいしかった!今まで食べた事ない味!」と言う私に「あの中身はめかぶだよ!めかぶは、さっーと熱湯にくぐらせ、茎、藻を切り分け茎にパッと包丁を当て斜めにぱぱぱっと切る。次に人参・ピーマン・しょうがをせん切りして漬けだしに漬けて(ソーメンだしもOK)切っためかぶを漬け込む。藻は切って酢の物にするとおいしいよ〜。残念だ〜!6月に来るとさ、うに!これが、とってもおいしいの!は〜(方言)それに、11月はさ、これがまた、あわびだよ〜!すっごい、おいしいのよ〜是非、食べさせてやりたかっだ〜宮古は、なんでもおいしいのさ〜・・・」とお二人、顔を見合わせて残念!残念!と話されました。それからいろいろな被災の様子を語られる・・・・じーん!と聞き入っている私の手を逆に握って下さり・・・・私は涙・涙・涙・・・・私達が参加させて頂いた活動には、宮古の方々と共に流れた温かい時間が凝縮されていたような気がします。私達の伝えようとした朗読とほんのささやかな茶菓と駄菓子、ほんの少しの心と体のケア。体操。見事に、宮古の方々に癒された私達でした。

 

 
   
 

 

東北遠征に参加して  市波 凜

 親切の押し売りになるのではないかと、そんな気持ちを抱いたままの参加でした。 私の訪れたところは製造会社駐車場に建ち並ぶ仮設住宅でした。お年寄りの方が多いかなと思っていましたが、子供達や、その若いお母さん達が十数名も集まって下さいました。テレビなどで、ご年輩の方々、子供達、家と働き場を失った大黒柱のお父さん方が取り上げられていましたが、この先の長い不安を抱えながら、家庭を守っている若いお母さんと間近に接して、考えることが多々ありました。夢中で読んだリクエストの本。いつまでも足湯でほっこりしていた男の子。お土産のお菓子の和紙で作られた箱を大事そうに抱えていた女の子。笑顔でお別れしましたが、本当の笑顔が戻る日がはやく来ることを心から願っています。

 

 
   
 

 

2012春・東北被災地支援活動に参加して  数澤淑子

 人知を超える自然災害は容赦なく地球のあちこちを襲う、これでもか、これでもかと。しかし、人間にはそれを乗り越える知恵と力も備えられていることを信じます。被災された方の思いを自分のものとし、今の思いを風化させることなく物心両面に亘り支えることが大切なことだと思います。今回初めてこのような活動に参加する機会を得ました。現地に降り立って延々と広がる巨大津波の爪痕を目の当たりにして言葉を失い、呆然と風に吹かれていました。復興はまだ緒に就いてもいません。足元に目を落とすと瓦礫のなかでオオイヌノフグリが瑠璃色の可憐な花を付け、小さな水たまりでハクセキレイがチチッと軽やかに尾を振っている、自然は何事もなかったように季節を教えてくれているが、ここに人々の笑い声が満ち溢れるのは何時のことでしょう。「気仙沼南町紫市場」で手作りのストラップ「小原木タコちゃん」を買いました。気仙沼市の小原木中学校避難所の共同生活の中で生まれた毛糸のタコちゃんには、8本の足で大きな幸せをつかみ、タコの足のように再生を願うメッセージが込められています。一つひとつのタコちゃんには制作者手書きの力強いメッセージが添えられていて、逆に勇気をいただきました。この愛嬌のあるタコちゃんは見るたびに被災地の復興を願い、出会った人々の幸せを祈る私のマスコットとなりました。

 今回の旅のメインである「生活復興支援活動」では、参加者全員が事前に色々と考え、心を込めて準備して望み、それぞれの会場で喜んでいただけたことは本当に嬉しい限りです。なにより小さな子どもたちの元気で天真爛漫な姿に救われる思いがしました。若いお母さんたちはこの子たちに希望を託して頑張れるのではと思います。参加された男性が座を盛り上げてくださったこともとても嬉しかったです。足湯マッサージはお互いの距離を縮めるのにとても効果があったと思います。若いお母さんも始めは遠慮がちでしたが、マッサージをさせていただくと、「気持ちがいい」とにっこりされ、少しずつ打ち解けてお話ができるようになり、和やかな雰囲気になりました。しかしながら、震災以降様々の辛酸に耐えてこられた方ばかりなのに、明るく振舞っておられる姿を見ると、胸の内はいかばかりかとの思いが広がり、これでよかったのかしら、こちら側の自己満足に陥ってはいないか、と自己の傲慢さを戒めつつ被災地を後にしました。私にとっては初めての経験でしたが、この活動は倶楽部の活動として継続させることは意義あることだと思います。

 

 

 
     
 
男の子からリクエストされた本を朗読
足湯
 
         
 

 

被災地活動に参加して  菱田純子

 とっても有意義で人生観が変わる4日間でした。気仙沼・陸前高田そして宮古の被災地を目の当たりにし矢張りテレビに映った映像は本物、言葉では言い表せられなくただただ両手を合わせるのみでした。仮設住宅での朗読に当たり、なんとお声をかけたらいいのか迷いの心が先行し、ただ足湯の足をさすってあげていた時“そこが痛いんや、ありがとうね”との言葉でした。爪が長いので爪切りを持って来ればよかったわという私の言葉に“手が届かんのや”と。そしてその方は被災の模様を淡々とお話しされました。子供のころから地震が起きたら高台へ逃げろと・・・・ほやから、何一つ持たずに逃げたと。流されていく家をただ見ているだけだったと・・・そして瓦礫と一緒に亡くなった人がいて、その瓦礫を除くとまた一人。また一人と・・・・と、ただ心がふさがるのみでした。又、ある人は、きれいなビーズの指輪をしてらしたので、素敵ねと私はなんの考慮もしないで声掛けをしました。“自分で作ったんや、本物の指輪やらなんもかも皆きれいに流されてしもうたんや・・・学校に避難してたんや、知らん人と一緒に固まってたんや。それから埼玉の娘宅で8ヶ月おったんやけど、ここの仮設住宅の募集を聞いて帰ってきたんや。おじいちゃん(連れ合い)が少しボケてきたみたいやったんがこっちに帰ってきたらしゃんとして治ったわあ、故郷はいいもんや”と。

 又93歳になる方は“あんた恋をしてるか”と。戸惑いました。急でしたから。“わたしゃ、恋してるんや。幾つになっても恋をしなきゃ駄目や、化粧をしてきれいにして恋をする。あんたもそうせんと。いつも気持ちを若くしておらんと・・・・・。”ちなみに相手の人は37歳とのことでした。きれいに化粧をして93歳にはみえませんでした。自然の怖さ、人間の強さを感じる、そして印象的な一言“ここにおるもんは皆、裸になったんや”・・・その言葉に悲しさと共に結束感を感じるのは私だけでしょうか。この70余の仮設住宅の中10人余の方たちとのふれあいでしたが朗読に声を上げて笑っていただき、こころが潤うひと時でした。そして美味しい宮古のお水で立てていただいたコーヒーの味を忘れません。ありがとうございます。

 

 
   
 

 

「東北被災地支援活動」に思う  笠間芙美子

 3/29(木)空は青く澄み渡る。東北に向けて、いざ出発。3/30(金)気仙沼市、陸前高田市視察。見渡す限り、がれきの山と剥き出しのビルの残骸ばかり。何もない。町が消えてしまっている。私は言葉を失った。目の前に広がる広大な土地に、動くものがない、音もしない。漁師町の活気と子どもたちの笑い声が溢れていたはずなのに…。一年前の想像を絶する悪夢が、深い悲鳴と悲痛が、嘘のような静けさ。かもめが何事もなかったように飛び交っていた。被災地視察の後、中尊寺、宮沢賢治記念館へ。3/31(土)12:30から宮古市仮設住宅にて支援活動。宮古市仮設住宅前は、手作りの花々で可愛く飾られていた。私たちの気持ちが、ホッと和む。早速、会場のセッティングにとりかかった。時間前から、ぼつぼつお見えになる。うれしいな。 いらした順番に足湯をしていただきながら、お話をうかがった。全然歩けなかったのに、やっと歩けるようになった。やはり女は、いざとなると強いと思った、とか。 こうして話しを聞いてもらえるのが一番うれしい、など。たわいないやりとり。ゆったりして気持ち良さそうで、接待させていただいている私たちも、気持ちが暖かくなる。持参したお菓子で加賀棒茶を召し上がっていただき、空気もほぐれたところで紙芝居が始まる。真剣に聞いていて下さる。私は絵本を読む前に、ちょっと面白い金沢の方言を紹介した。まるで英語を聞いているみたいだ、ですって。(笑)

 紙芝居2つ、絵本3つ―終わったところで、またお茶を入れてそれぞれ皆さんのテーブルに行き、お話タイム。きっかけ作りに「金沢の観光パンフレット」を配布する。まだまだ欲しい人がいて、悪かったなあ、と反省。「金沢はいいところね」「行きたいが、遠くてね」「私も、この人も全財産亡くしてしまった」私たちにとって禁句の言葉を、あっけらかんと言われる。一年という月日が、そう言わせるのか。「これから先、どうしたら良いのか。先の見えない不安にもどかしさを感じる。はっきり方針が決まれば、私たちも、それに向かって希望は持てるのに…」「子ども達と別れて、この仮設住宅へ入った。ここには話し合える仲間がいるから」きっと涙を流したり、笑ったりと支え合いながら必死に生きてきたのだろうと思う。それでも、「年寄り達が、おしゃれを楽しむようになり、若返った」という、意外なうれしい一面も。「津波を経験したことで、人生観が180度変わった。何が一番大切か―ということを皆考えるようになった」そして最後には、「皆に喜ばれるボランティアで良いですね。頑張ってくださいね」反対に勇気づけられてしまった。いろいろと苦しみ、悲しみ、葛藤があっただろうに、他人への気遣いまで。そして、施設員さんが、僕がボランティアさんにこだわりのコーヒーを入れました、と心こもったコーヒー。感無量。アッという間の2時間、時間が足りないと思う位でした。それにしても、浅野川倶楽部の皆さまに感服。ひとつひとつの流れが、実に手際よく、自然で、各々の個性が生かされていました。聞くところによると、ここの仮設住宅は40世帯余りとのこと。まだ暗闇の中で苦しんで、引きこもりがちな方のことを考えると心が痛みます。が、私たちが想像していた以上に、ここの方達は前向きで明るかった。確実に、一歩ずつ進んでいらっしゃるように思いました。

 私は想いました。鎮魂、平和希求、万物共生の祈りに貫かれたみちのくの浄土の平泉(中尊寺)。そして、宮沢賢治の生きた時代も貧しく、戦争、地震、津波での悲しい時代でしたが、賢治は岩手県を、銀河の空間、田園の風と光に満ち溢れたドリームランドと言った。その土地から、人々の心を揺さぶる心象スケッチとしての詩や童話が生まれた。完膚無きまで被災し、苦しみ、今、生の意味を必死に求める東北人は、「草木国土悉皆成仏」平泉の伝統と、土地の精神を生きた賢治の思想を抱いて、人の深さを見つめながら蘇るのではなかろうか、と。微力ながらも、被災された方へ少しでも、心に寄り添えることができたらとの今回の参加でしたが、反対に多くの感動をいただいた。東北被災地の人々のことを、大震災のことを忘れることなく、心に深く刻み、岩手をあとにしました。心の琴線にふれる、素晴らしい企画に参加させていただきました。本当に有難うございました。被災地の方々の一日も早い復興と心の平安を祈念しております。

 

 
   
 

 

東北被災地支援活動参加の感想  澤 桂子

 今回の東北被災地への支援活動のお話を聞いた時に、何の迷いもなく参加してみたい気持ちが起こりました。一人では行けないだろうが、機会があれば、実際にこの眼で被災地を見ておくことは、大袈裟に言えば、日本人としてするべきことかな、というぐらいの気持ちでした。出発の日が近づくにつれて、本当に私みたいな者が行っていいのだろうか、私に何が出来るのだろうか、被災者の方々に朗読で何が出来るのだろうか、とだんだん心配になっていましたが、ともかく、私自身は朗読をするよりは被災者の方々のお話相手が出来ればいい、いわゆる「傾聴ボランティア」をしようという思いでした。結論から言えば、本当に行って良かったということです。テレビで見慣れた被災地の実際の風景は、ものすごい広大な広さだったこと、そこにあった町が根こそぎ無くなってしまったこと、流されてしまった船の巨大さと距離は、テレビの画面では決してわからないこと、本当に言葉をなくすほどでした。

 そんな現実の前でも、人々はテレビでも感じたとおり、穏やかなお顔で暮しておりました。もちろん心の中は計り知れない思いである筈です。仮設商店街のお魚屋さん、コロッケ屋さん、磯ラーメンを食べた食堂の方、仮設住宅の交流室に集まって下さった方々、どの方も穏やかで明るい素敵なお顔をしていました。こんな悲惨な悲しい現実の中で、何でこんな良いお顔をできるのか、のうのうと暮している自分の顔が恥ずかしくなるくらいです。交流室で紙芝居と絵本を読んだ時の自分の気持ちは、ただひたすら、子供たちに笑ってほしい、お母さんたちにそんな子供たちを見せてあげたいという思いだけだったと思います。いつも自己意識過剰気味で恥ずかしいという思いが強い自分が、そんなことなく、大声を出したり、笑わせようと大袈裟にふるまったり、不思議です。こんなことを自分が出来るなんて、まさに被災者の方々からパワーを頂いたのだと思います。朗読で何かを出来ることを感じた瞬間です。眼を輝かせて聞いている子供たち、その子を見ているお母さん。そのお母さんが別れる時に「素敵なことをなさっていますね」と言ってくださいました。それだけで充分だと思いました。機会があれば、また、行きたいですね。

 

 

 
     
 
紙芝居「いたずらぎつね」 2012.3.31
  後列: 刈本光子・原 夏美・藤田理子・五十川千枝子
中列: 澤 桂子・笠間芙美子・数澤淑子・津雲京子・菱田純子
前列: 市波 凜・施設員中島さん・高輪眞知子 2012.3.31
       
 

 

ボランティアに参加して  藤田理子

 気仙沼に、陸前高田に、そして宮古の被災地に立った時、想像を絶するスケールの大きさと、破壊力の凄まじさが今なお生々しく残されていて、被災された方々の無念の声が聞こえるようでした。当初写真を撮ろうかと考えていた私でしたが、最後まで撮ることは出来ませんでした。被災された方々がそれぞれの体験を、自然にあふれるように話してくださいました。これらの想いを受けて、私はどうしたらよろしいのか・・・。今、私は、出来るだけ早く、沢山の方が被災地を訪ねられ、様々な状況を目にされることを願っています。そこで体感すること等が被災地の復興への力につながり、訪ねた私達の生きる力につながると実感しているからです。是非、また被災地を訪ねたいと思っています。そしてその時は、一人でも多くの方と御一緒できればと、願っております。

 

 
   
 

 

東北被災地の旅を終えて  刈本光子

 初めて津波の跡地に降りた時、あまりの広さに言葉が出なかった。テレビ等で一応の知識を得ていたつもりだが、現実はそんな生易しいものでは無かった。現場に行ってみなければ得られない感覚に捕われていった。一瞬にすべてを失う― 明日は自分にも起こる事だと心から思った。今を大切に生きようと。その中で復興に向って歩み始めている人々に会った。まだ商店も少ないが、声に明るさがあった。仮設の集会所で、私達も日頃以上に感情をこめて朗読をしました。お茶をすすめると次第に明るい表情に変り、私も胸が熱くなり一緒にうれしくなった。自分の出来る事は小さいが、何かをしたい、しなければという思いが益々強くなった。男の子が目をキラキラさせて聞いてくれた。今回の旅の一番の収穫である。自然の力は恐ろしいが、人々は力強く立ち上がろうとしている。その証が男の子の輝く瞳だと思う。
 長閑けさや 津波の力秘めし海 復興の店声高に春の来る

 

 
   
 

 

東北被災地支援活動に参加  五十川千枝子

 活動会場は2会場でしたから、私共6人B班は学校グラウンド内の仮設住宅集会場で心を込めて≠フ思いで金沢より持参の泉鏡花が愛飲した棒茶と、うの花の甘味で会場に来ていただいた10数名の方々をお迎えしました。足湯中の会話も紙芝居、朗読、手遊びゲーム時以外の時間にも、集いに足を運んで下さった方々からお話し掛けいただき、被災状況もご自分から話し出され聴いてね≠ニいう風も見うけられ、次から次と話しが繰り出されて来て(私共の年令が近かったからかも知れませんが)うなづきし、相づちし、大きい声で一緒に笑い合い、たずね合い、聴き合い、又ひたすらお聴きし、楽しく、13時から15時が短く思われ片づけに入りました。帰り際にお礼を申し上げたところで、皆さん立上がられ、両手を差し出され握手して下さりながら「楽しかったです。家の中に居るよりここにいつも来とる。ありがとう。又、来れたら来てください。」とニコニコ笑顔で言って下さった時は、この地に招いて下さった∞招いておられる≠ニ深く心に滲み入りました。お二人の先生と9人の部員方と御一緒の3泊4日は大きく重いものと成りました。心より感謝申し上げます。これからの生き越しを思うと、この地の方々の頑張りに、自分も負けんと気合い入れ頑張らな駄目やぞ!!と刻み込みました。総勢12名の団結力は素敵でした。浅野川倶楽部員だったからこその私の貴重な経験を得ることが出来た幸せを思いつつここに記します。

 

 
   
 

 

2012春・東北被災地支援活動を終えて  津雲京子

 東北の地、岩手県一関に今回の活動の一歩を記す。地方の町のひとつとして一見何事もなかったかのように、そこには日常の町があった。が、一関で出会った人は言う「海沿いで被災した方々のことを思うと、確かに一関も揺れは大きく怖い思いもしたが、自分達は被災者なんておこがましくて言えない。申し訳ない」と。そしてこの活動の間に、なんと自分のこと以上に、他者を思いやる人と接したことか。気仙沼市の仮設店舗で魚を商う人は言う。「ここはまだいいほうだ。陸前高田市は広い地域が被害にあってしまった。ここよりずっとひどい」遠くの海岸に一本の松が見える。周りは瓦礫の山また山。基礎のコンクリートだけが残る町の跡。陸前高田市は一年たった今も、大きな瓦礫こそ取り除かれてはいるが、まだそこに残る生活の残骸。四角なテレビ画面から見ていた光景をはるかに遥かに超える被災の情況。つなみが40メートルも駆け上がった宮古の浄土ヶ浜近く、私たちを迎えてくれた仮設住宅に暮らす人もまた、「遠くから大変だったね。ありがとう。」と。「紙芝居の画面より、あなたの表情を見ていて楽しかったよ。」とも。とつとつとご自身の被災時の様子を話され、「でもね」隣の人を指されて「彼女はね、つなみに御主人とお舅さんをさらわれてしまった。私よりもっともっと辛いね」と。ほんとうは、一緒に涙を流せばよかったのだろうか。あまりの壮絶さに。言葉も失った。お二人とも生きていてありがとう。家に帰ったその夜、どっと涙があふれた。
 
春よ、早く来い。東北の地に、一人ひとりの心の中に!

 

 
     
 
 
 
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