郷土ゆかりの作家紹介
 
 
【いいねっと金沢より】
http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/
  【地元作家】      
         
  杉森久英  小説家・評論家
明治45年(1912)〜平成9年(1997)
  石川県七尾市に生まれ、この地の旧家の出で吏員を勤めて石川県属となった父の転任で金沢市に移り住み、菊川小学校、一中、四高に学び、昭和9年東大国文科を卒業しました。
 昭和28年発表の短編小説「猿」が芥川賞候補となったことを機に文筆生活に入ります。文芸評論、人物論、書評などにも筆をとるかたわら、諧謔、風刺小説をつぎつぎに発表し、同郷の作家島田清次郎の生涯を書いた「天才と狂人の間」(昭和35〜36年)で直木賞を獲得し文壇の地位を確立します。
  長沢美津  歌人・国文学者
明治38年(1905)〜

  金沢市に生まれ、日本女子国文学部を卒業し、「女性和歌の史的考察」により文学博士となります。「氾青(はんじょう)」(昭和4年)から毎年のように現在まで歌集を出し、「女人和歌大系」全4巻(昭和37〜47年)の研究書、随筆集「アメリカを行く」(昭和34年)、「わすれもの」(昭和45年)、その他多くの著書があります。
 
 
         
  島田清次郎  小説家
明治32年(1899)〜昭和5年(1930)31歳没
 
石川県石川郡美川町で回漕業を営む家に生まれたが、父親の死後、金沢にし茶屋街で貸座敷業を営む母の父の家に
母子で寄食します。
 野町小学校を首席で卒業、石川県立金沢第二中学校(本館は現在「金沢市民俗文化財展示館」として残る)へ入学
しますが、祖父が米相場に失敗し、明治学院普通部、二中復学、金沢商業本科と、転校を繰り返します。金商を退学後は、生活のため転々と職業を変えます。
 大正8年に発表した長編小説「地上」第一部は、若い読者に迎えられ大ベストセラーとなります。大正11年までに第四部まで出版するかたわら随筆集、短編集、戯曲、評論集などを執筆しますが、その後、人気に幻惑されてか、自分を天才と思いこみ、変わった行動をとることも多くなり、早発性痴呆症を発して精神病院に収容され、昭和5年に亡くなります。
 島田清次郎の生涯については、杉森久英著「天才と狂人の間」(昭和35〜36年)に詳しく描かれています。
 
  尾山篤二郎  歌人・国文学者
明治22年(1889)〜昭和38年(1963) 73歳没

  刈萱、秋人、無柯亭主人の別号。浅野川に程近い金沢市横安江町に、雑貨仲介業を営む父与吉、母藤の長男として生まれます。明治33年金沢商業に入学しますが、36年、膝関節結核のため、右足を大腿部から切断、学業を排し、やがて文学熱を燃やし始めます。
 篤二郎が処女歌集とよぶ「さすらい」(大正2年)を出版後、東京、名古屋、金沢、旅と漂泊者のごとき生活を続けながら、短歌、歌論、古典和歌研究を精力的に書き続けます。
 苦しかった疎開生活の作を中心とした歌集「とふのすがごも」(昭和21年)は、「大伴家持研究」(昭和23年)などの業績とともに26年芸術院賞を得ました。篤二郎が残していった歌集は11、収められた歌は7288首にもなり絶えず故郷を歌い続けた歌人でした。
 現在、犀川の下菊橋付近には尾山篤二郎生誕百年記念碑が、兼六園と本多の森の間、及び浅野川常磐橋詰には尾山篤二郎歌碑が建っています。
 
 
         
  桐生悠々  ジャーナリスト・評論家
明治6年(1873)〜昭和16年(1941)68歳没
本名 政次
 
金沢市に、士族桐生庸平篤好の三男として生まれます。第四高等中学校で同級生徳田秋声と親交を結び、明治28年東京法科大学へ入学し、小説、俳句、随筆等を執筆します。
 
明治35年下野新聞主筆としてジャーナリストの道を歩みだし、その後いくつかの新聞社の記者を経て、明治、大正、昭和の三代にわたる反骨のジャーナリストの名をほしいままにしました。
  水芦光子  小説家
大正3年(1914)〜

  金沢市の浅野川小橋界隈の箔商の家に生まれ、昭和6年石川県立金沢第二高女を卒業しています。
 初めのうちは詩に専念し、室生犀星に師事して詩集「雪かとおもふ」(昭和21年)を出しますが、のちに小説を
執筆するようになり、「米と花の小さな記録」(昭和30年)で注目を浴び数々の作品を発表していますが、なかでも「雪の喪章」(昭和34年)では高い評価を得ています。
 卯辰山には現在、水芦光子詩碑が建っています。
   
 
         
  深田久弥  小説家・山岳紀行家
明治36年(1903)〜昭和46年(1971)
68歳没
 
石川県加賀市大聖寺町に紙商を営む父弥一、母トメの長男として生まれます。
 旧福井中学(現藤島高校)、旧制一高、東大哲学科と進
み、昭和5年に発表した「オロッコの娘」が好評を得たことを機に、大学を中退し執筆活動に入ります。その後は、小学校6年の時に故郷の富士写ヶ岳(942メートル)山行をきっかけに、本格的登山に親しみを覚え、随筆紀行の類も数多く執筆するようになります。
 昭和21年復員後は、越後湯沢、大聖寺、金沢、東京と居を変え、小説よりもヒマラヤ研究に力を注ぐようになり「日本百名山」(昭和34〜38年)で第16回読売文学賞を受賞します。
 43年日本山岳会副会長に就任し、46年茅ヶ岳頂上近く脳卒中で急逝します。
 深田久弥は戦後しばらく浅野川の梅ノ橋近くに住み、そこから小橋にいたる浅野川左岸のしずかなたたずまいを絶賛してやまなかったといわれています。
  
  中西悟堂  歌人・詩人・野鳥研究家
明治28年(1895)〜昭和59年(1984)
89歳没  幼名 富嗣
 
金沢市長町に生まれ、16歳のとき東京都調布市深大寺で得度し天台宗の僧籍に入り悟堂と改名します。短歌には歌集「唱名」(大正5年)「安達太良」(昭和34年)「悟堂歌集」(昭和42年)、詩は詩集「東京市」(大正11年)「花巡礼」(大正13年)、その他にも随筆、訳詞などを執筆しています。
 昭和3年頃から野鳥と昆虫の生態を研究して「虫・鳥と生活する」(昭和7年)を出版し、9年日本野鳥の会を設立し機関誌「野鳥」を創刊、鳥類の分布を調べ、その愛護につくし、わが国野鳥研究の権威となります。野鳥に関する著述と活動によりエッセイスト・クラブ賞(昭和31年)、読売文学賞(昭和43年)を受けます。
 
 
         
  藤岡東圃  国文学者
明治3年(1870)〜明治43年(1910)
39歳没  本名 作太郎
 
金沢に生まれ、明治20年、この年創設の第四高等中学校に入学し、東京帝大文科大学国文科に進み、卒業後「薄曇月橋物語」(明治27〜28年)等の小説を執筆するなか、多岐にわたる生活文化を史的展開の相において追求する体系的な風俗通史として最初の書といわれる「日本風俗史」(明治28年)を平出鏗二郎との共編で出版します。
 明治33年東京帝大文科大学助教授となり、そこでの文学史の研究を主軸とした講義が基礎となり「近代絵画史」(明治36年)「国文学全史平安朝篇」(明治38年)等の名著が生まれました。
 
  三宅雪嶺  哲学者・評論家・ジャーナリスト
万延元年(1860)〜昭和20年(1945) 85歳没 
本名 雄次郎
 
加賀国金沢新竪町二、加賀藩家老本多氏の儒医恒と洋医黒川玄龍の長女滝井の第四子として生まれました。
 社会問題で強い関心を持ち、明治17年には「自由新聞」記者として秩父事件を視察、のちには足尾鉱毒事件
にかかわり、37年には日露戦争を観戦し、戦前の大ジャーナリストとして活躍しました。
 その後、雪嶺はおびただしい人生論を書き始めるとともに、度々講演にもたちます。雪嶺は儒教、仏教を主とする東洋哲学を、西洋哲学とならぶものとして位置づけ、東西両哲学の拮抗と総合とをめざしました。
  昭和18年文化勲章を受けています。
 
 
         
         
  【縁故作家】      
         
  五木寛之  小説家
昭和7年(1932)〜
本名 松延寛之

 福岡県八女市生まれ。9年間各種の職業を経験したのち、昭和40年にはそれまでの仕事を整理してソ連や北欧に遊び、帰国後、元金沢市長岡良一氏を父とする夫人の郷里である金沢に落ち着き、「さらば、モスクワ愚連隊」(昭和41年)を執筆、第6回「小説現代」新人賞を受けたのをきっかけに作家活動に入ります。さらに42年には「蒼ざめた馬を見よ」(昭和41年)で第56回直木賞を受けます。
 泉鏡花文学賞制定の恩人でもあり、「朱鷺の墓」「ステッセルのピアノ」「金沢望郷歌」「浅の川暮色」など金沢を舞台にした作品を数多く執筆しています。
 
  古井由吉  小説家
昭和12年(1937)〜
 
東京都荏原区(現・品川区)に生まれ、東大にて独文学を学び、修士の学位を取得後、昭和37年金沢大助手ドイツ語教官となり、小鳥屋橋筋(旧並木町裏通り)に下宿しながら三年間を金沢市で過ごします。
  小論、翻訳等を執筆したのち、「木曜日に」「失導獣の話」(昭和43年)などを発表、その後精力的な創作活動を続けます。
 昭和44年に発表した「雪の下の蟹」は金沢滞在中に体験した三八豪雪をもとに小説化したもので、その後「杳子(ようこ)」(昭和45年)によって第64回芥川賞を受賞します。
 
         
  高橋 治  小説家
昭和4年(1929)〜

  千葉県に生まれ、昭和22年から4年間、旧制四高に通い、東大卒業後松竹に入り小津安二郎のもとで長く働いた後に執筆活動に入ります。
 その後、金沢美大非常勤講師を8年勤め、「派兵」
(未完)により泉鏡花記念金沢市民文学賞(昭和52年)、「秘伝」(昭和58年)では直木賞、「名もなき道を」(昭和60年)では柴田錬三郎を受賞します。  
  曽野綾子  小説家
昭和6年(1931)〜
本名 三浦知寿子

  東京府南葛飾郡本田町に生まれ、昭和20年から翌年までの戦時疎開中に、石川県立第二高女に通学し、終戦を寺町の休業中の料亭、望月で迎えます。
 
昭和29年聖心女子大英文科を卒業後発表した「遠来の客たち」(昭和29年)が第31回芥川賞候補作品に選ばれたことが、作家としての出発点になります。
 
 
 
         
  竹久夢二  画家・詩人
明治17年(1884)〜昭和9年(1934)
49歳没
  岡山県邑久郡本庄村に生まれ、明治35年、早稲田実業に入学、本科3年を38年卒業して同校の専攻科に進みます。
  その時はじめて投書したスケッチ文「可愛いお友達」が「読売新聞」日曜付録に掲載されたのが、夢二のものが活字になった最初です。そして平民社での友人荒畑寒村の紹介で、平民社の機関紙「直言」にコマ絵の掲載されたのが、夢二の絵の最初に版に起こされたものです。
 明治43年に初めて、妻岸たまきの故郷であった金沢を訪れています。その後、大正3年、呉服橋にたまきが開いた絵草紙屋「港屋」で、当時女子美術学校日本画科の生徒であった、日本橋の老舗紙問屋の一人娘笠井彦乃と知り合い、大正6年9月からおよそ3週間、ともに湯涌温泉に恋の逃避行をしています。その当時の思いが歌集「山へよする」(大正8年)に収められており、現在その中の歌「湯涌なる」を刻んで湯涌のお薬師には、夢二生誕百年(昭和56年)を記念する文学碑が建てられています。
  井上 靖  小説家
明治40年(1907)〜平成3年(1991)
83歳没
 
北海道旭川に生まれたが、父隼雄が軍医で任地を転々としたため、幼少期の靖は父の故郷伊豆湯ケ島で過ごします。
 
昭和2年金沢の第四高等学校理科に入学、家業の医学を修めるつもりであったが、柔道部に入り、明けても暮れても道場で寝技の練習に没頭します。その間の自分をモデルに書いた小説が「北の海」(昭和43〜44年)です。
 三年生の時、ゆえあって柔道部を退部しますが、いまさら勉強生活にも帰れず、もはや医学部に進む気持ちはなく、中学を卒業してから一時離れていた文学に再び帰ります。
 そして昭和5年家族の期待に反して九州帝大法文学部に入ります。それから2年後に京都帝大哲学科に入学し、美学を専攻し、昭和11年卒業、毎日新聞に入社、「サンデー毎日」編集部勤務となります。
 昭和24年発表の「闘牛」が芥川賞を受けたことを機に、多忙な作家活動に入り、昭和39年、日本芸術院会員に推され、51年文化勲章を受けました。

 
         
  中原中也  詩人
明治40年(1907)〜昭和12年(1937)
30歳没
 
山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村に生まれ、幼年期は、陸軍軍医であった父に従い、旅順、山口、広島、金沢に移り住みます。
 
金沢へは明治45年・大正元年に当時寺町の奥にあった歩兵三十五連隊付軍医として赴任した父と共にやってきて、それから3年、寺町の松月寺前に住み、北陸英和幼稚園に通います。その時の様子をのちに「金沢の思ひ出」(昭和11年)に執筆し、またその頃の思い出を歌った「サーカス」(昭和4年/「山羊の歌」所収)はにし茶屋街に近い神明宮の祭礼の風景だといわれています。
 昭和9年、処女詩集「山羊の歌」を発表し、この前後から幾つかの刊行誌に詩を発表したり、「四季」や「歴程」の同人になり、詩人としての地位を確立し始めます。しかし、12年に第二詩集「在りし日の歌」を編集しますが、その刊行をみないまま、結核性脳膜炎のため30歳で亡くなります。
  芥川龍之介  小説家
明治25年(1892)〜昭和2年(1927)
俳号 我鬼

  東京市京橋区入船町に生まれ、辰年辰月辰日の辰の刻の生まれにちなんで、龍之介と命名されました。
 学業成績は優秀で、読書欲旺盛で、江東小学校、東京府立三中、一高一乙文科、東大英文科へと進み、東大英文科卒業の大正5年に発表した「鼻」を夏目漱石から激賞されて新進作家の地位を確立します。
 大正13年5月、かねてから交流のあった室生犀星をたずねて金沢へ向かい、犀星の世話で兼六園の三芳庵の茶屋に5日間程滞在します。その間金沢の俳人桂井未翁、太田南圃、詩人小畠貞一たちと交流を深めた龍之介は短歌「金沢にて」を詠み、その中で巧みに金沢弁を使いこなし鬼才ぶりを発揮しています。
 
         
  中野重治  小説家・評論家・詩人
明治35年(1902)〜昭和54年(1979) 77歳没
 
福井県坂井郡高椋村(現丸岡町)一本田に生まれ、大正8年旧制福井中学から金沢の旧制四高文科乙類に進みます。
 
一年生の時から、生徒会誌「北辰会雑誌」に、四高短歌会詠草を最初として短歌、詩、小説、訳詩等を発表し、また雑誌部員として同誌の編集にもあたっていました。その後、13年東京帝大独文科に進みます。
 昭和40年から5年間にわたって長編「甲乙丙丁」を書き続け、それまでの30年間ないし、35年間の中野の革命運動内部での経験、印象、痛苦、歓び、批判、問題等すべてを描き出し、昭和44年野間文芸賞を受賞します。
 
  加藤楸邨  俳人
明治38年(1905)〜平成5年(1993)
88歳没  本名 健雄
 
東京に生まれ、父が国鉄勤務の為、小学校から中学にかけて、東京、東北、北陸の各地を転々とします。昭和4年、東京高師を卒業し、粕壁中学に奉職し、6年頃同僚に誘われて俳句を始めます。
 昭和15年には主宰誌「寒雷」が創刊され、今日におよんでいます。昭和28年〜41年の作品を収めている第10句集「まぼろしの鹿」(昭和42年)によって、43年第2回蛇笏賞を受賞します。いわゆる人間探求派として中村草田男らと共に、人間の内面の表現追求を生涯つづけました。
  
 
         
  森山 啓  小説家・詩人・評論家
明治37年(1904)〜平成3年(1991)
87歳没  本名 森松慶治
 
新潟県岩舟郡村上本町に生まれ、旧制福井中学、金沢の旧制四高で学びます。
 大正14年、東大美学科に入学、15年、四高出身者
の同人誌「山上」に森松一雄の名で作品を書いたりするなどして文学的関心を示し、プロレタリア詩人として中野重治らと活動を共にし、後に小説に転じていきます。その後、昭和16年には妻みよの故郷石川県小松に移住、のちさらに松任に移ります。
 昭和17年には「海の扇」によって新潮社文芸賞を受賞し、「青い靴」(昭和37年)は「非行少女」という題で映画化され一躍有名になりました。
 

三島由紀夫  小説家・劇作家
大正14年(1925)〜昭和45年(1970)
45歳没  本名 平岡公威(きみたけ)
 
東京市四谷区永住町2番地に、農林省官吏を父、前田藩儒者で東京開成中学校長をつとめた橋健三の次女を母として生まれます。
 戦後「仮面の告白」(昭和24年)で文壇の注目を浴び、「禁色(きんじき)」(昭和26年)「潮騒」(昭和29年)などを経、「金閣寺」(昭和31年)に至って、戦後最大の作家のひとりとされました。「美しい星」の中で市電の走る頃の金沢を記しています。

 
 








  与謝野晶子  歌人・詩人
明治11年(1878)〜昭和17年(1942)
63歳没  本名 しよう
 
大阪府堺市甲斐町の菓子商駿河屋に生まれ、堺女学校補習科を卒業後、家業を手伝うかたわら、独学で古典の勉強をし、機関誌等に短歌や詩を投稿します。明治34年、「明星」に毎月数10首は寄せていた作品を集成して歌集「みだれ髪」を出し、高い世評を得て代表作となります。
 夫与謝野寛とともに、昭和6年と8年と、二度兼六園を訪れて、歌を詠んでいます。
 
  吉田健一  評論家・小説家
明治45年(1912)〜昭和52年(1977) 65歳没
  かつての総理大臣吉田茂の長男として東京市千駄ヶ谷で生まれ、大正7年から8年間の少年期を、当時外交官であった父親と共に外国で過ごします。
 
昭和24年、書き下ろしとして刊行された小英文学史「英国の文学」がひろく注目をひいた最初の業績です。
 昭和32年に出た「日本について」で新潮文学賞を、また「ヨオロッパの世紀末」(昭和45年)で野間文芸賞を得ています。
 吉田健一も金沢を愛した一人で、「金沢」という作品を残しています。
   

 
       
  郷土を舞台とした作品の数々      
           
  奥能登     浅野川・卯辰山
  揚浜塩田 沢木欣一作「塩田」   旧新町(尾張町) 泉 鏡花 作 「照葉狂言」
  舳倉島 深田久弥作「火にも水にも」   旧新町(尾張町) 泉 鏡花 作 「さゝ蟹」
  町野 水芦光子作「あざやかな樹」   旧新町(尾張町) 泉 鏡花 作 「名媛記」
  曽々木海岸 菊田一夫作「忘却の花びら」   中の橋 泉 鏡花 作 「化鳥」
  曽々木海岸 水上 勉 作「奥能登の悔石」   黒淵 泉 鏡花 作 「三之巻」
  時国家 半村 良 作「平家伝説」   小橋町・円融寺

泉 鏡花 作 「髭題目」

  舳倉島・時国家 塚本邦雄作「半島」   小橋町・円融寺 泉 鏡花 作 「卵塔場の天女」
  白米・千枚田 安水稔和作「能登」  

卯辰山山麓・東山

泉 鏡花 作 「夫人利生記」
  恋路海岸 佐々木守作「恋路海岸」    全性寺
  暮坂 森山 啓 作「野菊の露」   卯辰山山麓・東山 泉 鏡花 作 「鶯花径」
         真成寺
        卯辰山山麓・東山 泉 鏡花 作 「縷紅新草」
         蓮昌寺
        天神橋 泉 鏡花 作 「義血侠血」
  中能登     卯辰山山頂 泉 鏡花 作 「由縁の女」
  穴水湾・ボラ待ちやぐら パーシヴァル・ローレル作「能登」   ひがし茶屋街 徳田秋声作 「挿話」
  八ヶ崎 杉森久英作「能登の流人」   旧新町・卯辰山 徳田秋声作 「光を追うて」
  向田 戸部新十郎作「安見隠岐の罪状」   旧新町 徳田秋声作 「町の踊り場」
  風戸 加能作次郎作「恭三の父」   小橋周辺 尾山篤二郎作 「秋の郷愁」
  風戸 加能作次郎作「厄年」   東山辺 尾山篤二郎作 「雪客」
  風戸 加能作次郎作「世の中へ」   東山・卯辰山 水芦光子作 「雪の喪章」
  風戸 加能作次郎作「父の生涯」   小橋周辺 水芦光子作 「おんいのち」
  増穂浦 福永武彦作「貝合せ」   ひがし茶屋街 五木寛之作 「朱鷺の墓」
  能登金剛・ヤセの断崖 松本清張作「ゼロの焦点」   主計町茶屋街 五木寛之作 「浅野川暮色」
  千浦   森崎和江作 「ナヨロの海へ、船乗り弥平物語」   橋場町 五木寛之作 「金沢望郷歌」
        尾張町・森八 加藤楸邨作 「菓子の思ひ出」
  口能登     橋場町 吉井由吉作 「雪の下の蟹」
  和倉温泉 泉 鏡花 作「山海評判記」   橋場町 吉井由吉作 「陽気な夜まわり」
  七尾城跡 村上元三作「能登国野干物語」   東山・観音坂

森山 啓 作 「市之丞と青葉」

  石動山 村上元三作「流雲の賦」      
  高浜町 岡部文夫作「能登」   犀川辺  
  高浜町 坪野哲久作「百花」   犀川 室生犀星作 「愛の詩集」
  高浜町 坪野哲久作「北の人」   犀川 室生犀星作 「抒情小曲集」
  一ノ宮町・気多大社 釈迢空作「春のことぶれ」   千日町・雨宝院 室生犀星作 「幼年時代」
        千日町・雨宝院 室生犀星作 「性に目覚める頃」
  加賀北部     千日町・雨宝院 室生犀星作 「杏つ子」
  内灘砂丘 芦田高子作「内灘」   千日町・雨宝院 室生犀星作 「涅槃会」
  内灘砂丘 五木寛之作「内灘夫人」   にし茶屋街 島田清次郎作 「地上・第一部」
  内灘砂丘 井上 靖 作「北国」   寺町・W坂 井上 靖 作 「北の海」
  内灘砂丘 井上 靖 作「北の海」   犀川 井上 靖 作 「川の話」
  内灘砂丘 森山 啓 作「青い靴」   寺町 曽野綾子作 「黎明」
        寺町・野町・神明宮 中原中也作 「金沢の思ひ出」
  加賀東部     寺町・妙立寺 吉田健一作 「金沢」
  寺井町郊外 室生犀星作「九谷庄三」      
  倉ヶ岳・手取川 泉 鏡花 作「風流線」   兼六園とその周辺 
  辰口温泉・まつさき 泉 鏡花作「海の鳴る時」   兼六園 泉 鏡花 作 「大和心」
  和気 加賀耿ニ作「綿」  

兼六園

泉 鏡花 作 「予備兵」
  和気 加賀耿ニ作「少年」   兼六園 泉 鏡花 作 「義血侠血」
  和気 加賀耿ニ作「土地はだれのものか」   兼六園・百間堀 泉 鏡花 作 「鐘声夜半録」
  白峰 橋 治 作「紺青の鈴」   兼六園 泉 鏡花 作 「凱旋門」
        兼六園 泉 鏡花 作 「女客」
  加賀南部     兼六園 泉 鏡花 作 「桜心中」
  安宅町・梯川河口右岸 庄野潤三作「紺野機業場」   兼六園・本多町 泉 鏡花 作 「伯爵の釵」
  小松市街 橋 治 作「紺青の鈴」    石浦神社
  山代温泉 泉 鏡花 作「みさごの鮨」   兼六園 泉 鏡花 作 「竜胆と撫子」
  片山津温泉 泉 鏡花 作「鷭狩」   兼六園 泉 鏡花 作 「縷紅新草」
  大聖寺から見る白山 深田久弥作「日本百名山」   兼六園 徳田秋声作 「光を追うて」
  片山津温泉 水上 勉 作「あかね雲」   兼六園 室生犀星作 「性に目覚める頃」
  山中温泉 佐々木守作「こおろぎ橋」   兼六園 室生犀星作 「芋掘藤五郎」
    鶴仙渓こおろぎ橋   兼六園 室生犀星作 「名園の落水」
  九谷町・九谷磁器釜跡 高田 宏 作「雪 古九谷」   兼六園 室生犀星作 「つくばひ」
  山中温泉 高浜虚子作「虹」   兼六園 室生犀星作 「噴水」
        兼六園 室生犀星作 「泥雀の歌」
        兼六園 室生犀星作 「杏つ子」
  金沢市街     兼六園 室生犀星作 「告ぐるうた」
 

医王山

泉 鏡花 作「薬草取」   兼六園 「室生犀星句集/魚眠洞全句」
  医王山

室生犀星作「医王山」

  兼六園 尾山篤二郎作 「平明調」
  医王山 室生犀星作「奥医王」   兼六園 尾山篤二郎作 「清明」
  材木町 徳田秋声作「感傷的の事」   兼六園 島田清次郎作 「死を超ゆる」
  野田山 室生犀星作「野田山」   兼六園 島田清次郎作 「早春」
  浅野川 尾山篤二郎作「さすらひ」   兼六園 長沢美津作 「兼六園百首」
  長町 中西悟堂作「故郷訪問」   兼六園 水芦光子作 「雪の喪章」
 

金沢城跡

深田久弥作「火にも水にも」   兼六園 水芦光子作 「みだれ扇」
  香林坊 五木寛之作「聖者が街へやって来た」   兼六園 芥川龍之介作 「金沢にて」
  尾山町・尾山神社 五木寛之作「風花の人」   兼六園 芦田高子作 「兼六園」
  石引・旧偕行社 五木寛之作「ステッセルのピアノ」   兼六園 井上 靖 作 「北の海」
  旧小立野刑務所裏 五木寛之作「小立野刑務所裏」   兼六園 五木寛之作 「朱鷺の墓」
  広坂
旧制第四高等学校跡
井上 靖 作「北の海」
高橋 治 作「名もなき道を」
  兼六園 五木寛之作「古い街の新しい朝」
  兼六園 曽野綾子作 「黎明」
  湯涌温泉 竹久夢二作「山へよする」   兼六園 中野重治作 「歌のわかれ」
  湯涌温泉 竹久夢二作「出帆」   兼六園 中原中也作 「金沢の思ひ出」
  小立野・香林坊 中野重治作「歌のわかれ」   兼六園・石川門 三島由紀夫作 「美しい星」
  浅野川鉄橋   兼六園 森山 啓 作 「青い靴」
  広坂 森山 啓 作「北窓ひらく」  
兼六園
与謝野晶子作 「北陸冬景」
  旧制第四高等学校跡   兼六園 与謝野晶子作 「北陸秋景」
  金石 室生犀星作「大野弁吉」      
           
           
           
           




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制作 表川なおき

 

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