室生犀星 【むろう さいせい】 明治22年(1889)〜 |
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石川県金沢市裏千日町31番地に、加賀藩にて足軽組頭を勤めた小畠弥左衛門吉種を父とし、ハルという名で小畠家に奉公したとされる女中を母として生まれました。 生後7日で生母から離され、7歳の時に犀川大橋詰の真言宗寺院雨宝院の住職、室生真乗の養嗣子となり、室生姓を名乗ることになります。「美しき川は流れたりその畔りに我は住みぬ」の「犀川」の詩と、犀川中流の犀星碑にも刻まれた「杏よ花着け地ぞ早やに輝け」の詩にみられるように、犀川はまさに、彼の文学の源泉でありました。 詩人として「愛の詩集」「抒情小曲集」等で近代抒情詩の一つの高峰を成し、やがて具体性、事実性のある表現を求めて小説を書き始め、「幼年時代」(大正8年)を処女作とし「性に目覚める頃」(大正8年)その他の自伝的抒情的作品により、小説家としての確固たる地位も築きます。 生涯の最長編「杏っ子」(昭和32年)で昭和33年度読売文学賞を受賞し、評論「わが愛する詩人の伝記」(昭和33年)でも同賞を得、古典に取材した作品「かげろふの日記遺文」(昭和33〜34年)では野間文芸賞を授賞し、秀作を次々と生み出します。昭和36年癌に冒されながら「私の履歴書」(昭和36年)、凄絶な闘病記「われはうたへどやぶれか ぶれ」(昭和37年)を書き、長編「好色」を書き続けながら72歳の生涯を閉じます。 ペンネーム犀星の「犀」は、犀川。その川から不屈の精神を汲み上げ、「星」の字に象徴されるように偉くなりたいという上昇の願望を、犀星は生涯燃やし続けたのです。 【いいねっと金沢より】http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/ |
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室生犀星年譜 | |||||||
明治 | 西暦 | 年齢 | 主な作品 | 社会事象 | |||
二十二年 | 一八八九 | 当歳 | 八月一日小畠弥左衛門吉種とハルと呼ばれていた女性の子として生まれる。生後ほどなく金沢市千日町一番地雨宝院の住職・室生真乗と内縁関係にあった赤井ハツに、もらわれ、照道と、ハツの私生児として届けられた。 | 大日本帝国憲法公布 金沢市制施行 | |||
二十七年 | 一八九四 | 五歳 | 日清戦争 | ||||
二十八年 | 一八九五 | 六歳 | 九月三日、金沢市立野町尋常小学校に入学(四年制)。 | 日清講和条約調印 | |||
二十九年 | 一八九六 | 七歳 | 二月(三月)十一日、室生真乗の養嗣子となり、室生姓を名乗る。 | ||||
三十一年 | 一八九八 | 九歳 | 三月十五日、実父、小畠弥左衛門吉種死去 | 金沢駅開業 | |||
三十二年 | 一八九九 | 十歳 | 三月二十九日、野町尋常小学校卒業 | ||||
三十三年 | 一九〇〇 | 十一歳 | 四月一日、金沢市立長町高等小学校入学(四年制)。 | 治安警察法公布 | |||
三十五年 | 一九〇二 | 十三歳 | 五月六日、長町高等小学校中退。同月、金沢地方裁判所に就職。 | 日英同盟締結 | |||
三十七年 | 一九〇四 | 十五歳 | 十月八日、『北國新聞』に俳句、照文の署名で一句が掲載された。裁判所の上司、河越風骨、赤倉錦風から俳句の指導を受ける。 | 日露戦争 | |||
三十八年 | 一九〇五 | 十六歳 | 七月一日、小品文「行く春」が『少年世界』(博文館発行)に掲載された。東京で発行されている雑誌では初めての掲載となる。 | ポーツマス条約調印 | |||
三十九年 | 一九〇六 | 十七歳 | 三月三日、『政教新聞』掲載の詩で初めて「犀星」の名を使う。 | ||||
四十年 | 一九〇七 | 十八歳 | 七月、『新声』に詩「さくら石斑魚に添えて」が、児玉花外の選で載る。七月頃、北辰詩社を尾崎篤二郎(明治二十二年)らと結社。表棹影(明治二十四年生)、尾山篤二郎の同年齢の友人と親交が次第に深まる。 | 足尾銅山で労働争議起こる | |||
四十一年 | 一九〇八 | 十九歳 | 十九歳、四月、『北陸新聞』に「犀星、鰍沈、帰雁十句合、洗耳洞判」掲載される。十月二十五日、『響』、北辰詩社の機関紙として創刊。十二月、金沢区裁判所金石出張所に転任。 | ||||
四十二年 | 一九〇九 | 二十歳 | 尼寺、海月寺(宋源寺)、通称釈迦堂に下宿。九月末、裁判所を退社。その後『三国新聞』に入社、福井県三国町に赴任。ほどなく社長と衝突して退社。金沢に戻る。 | 伊藤博文がハルビンで暗殺される | |||
四十三年 | 一九一〇 | 二十一歳 | 二月頃、『石川新聞社』に入社。家を出て下宿。五月五日、夜行で金沢を発ち、東海道廻りで六月新橋駅に着く。友人、田辺孝次、吉田三郎、幸崎伊次郎が出迎えた。当夜は田辺の下宿に泊まる。その後、金沢地方裁判所の上司であった赤倉勇次郎(錦風)を頼って寄宿する。赤倉の家を出た後は、下宿を転々とする。 | 韓国併合 | |||
四十四年 | 一九一一 | 二十二歳 | 諸年譜では、七月(または八月)、生活の窮乏と炎暑に耐えかねて帰郷。以降州年間、帰郷と上京を繰り返す不安定な生活が続いたとされているが、帰郷年月、回数の詳細は不詳。 | ||||
四十五年 | 一九一二 | 二十三歳 | 七月頃、帰郷。故郷は温かく迎え入れてはくれなかった。十月『スパル』に四篇、『北國新聞』に3篇などにの詩を発表し、『抒情小曲集』に収められる詩が作られはじめる。 | 明治天皇没、大正と改元 | |||
大正 | |||||||
二年 | 一九一三 | 二十四歳 | 『朱鷺』一月から五月に詩が掲載される。五月号に「小景異情」掲載。晩春、『朱鷺』を見た萩原朔太郎から突然の手紙をもらう。以来生涯にわたる親交を結ぶ。十一月、上京 | ||||
三年 | 一九一四 | 二十五歳 | 二月十四日、前橋に萩原朔太郎を訪ねる。六月、萩原朔太郎、山村暮鳥と三人で人魚詩社創立。八月、北辰詩社を異端社と改名。九月一日、『異端』発行。発行所・東京市麹町区の尾山方、異端社 | 第一次世界大戦 | |||
四年 | 一九一五 | 二十六歳 | 三月七日、『卓上噴水』創刊。編集兼発行人・室生犀星、発行及編集所・金沢市千日町二、人魚詩社。三集で廃刊。五月八日、朔太郎、金沢に来る。十七日まで滞在。 | ||||
五年 | 一九一六 | 二十七歳 | 六月一日、『感情』創刊。発行兼編集人・室生照道、編集兼発行所・本郷区千駄木町百二十番地、感情詩社。朔太郎、暮鳥、竹村俊郎、多田不二、恩地孝四郎などを同人として、大正八年末まで発行継続。七月、田端百六十三番地へ移る | 吉野作造が民本主義を唱える | |||
六年 | 一九一七 | 二十八歳 |
二月、朔太郎の詩集『月に吠える』刊行、発行人となる。九月二十三日未明、養父、真乗死去。九月二十七日、文通中の浅川とみ子と婚約。 |
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七年 | 一九一八 | 二十九歳 | 一月一日、『愛の詩集』感情詩社より自費出版。二月十三日(十六日)、浅川とみ子と金沢市裏千日町の小畠家で挙式。九月、『抒情小曲集』感情詩社より刊行。 | 『愛の詩集』『新らしい詩とその作り方』『抒情小曲集』 | 原敬内閣成立 | ||
八年 | 一九一九 | 三十歳 | 五月、『第二愛の詩集』文武堂書店より刊行 五月下旬、「幼年時代」脱稿。六月十日頃、『中央公論』の滝田樗陰に送る。七月、『中央公論』から「幼年時代」の校正刷り届く。八月一日に掲載される。八月、『中央公論』編集長、滝田樗陰来る。執筆依頼される。十月、「性に目覚める頃」を『中央公論』に掲載。十一月、「或る少女の死まで」を『中央公論』に掲載。十一月、『感情』三十二号発行。この号をもって廃刊。 | 『第二愛の詩集』 | ベルサイユ条約調印 | ||
九年 | 一九二〇 | 三十一歳 | 一月『性に目覚める頃』新潮社より刊行。第一短編集。五月八日、帰郷。在郷中、北聲会が歓迎の会を開く。七月末、長野に旅行。旅館、つるやに宿泊。以後、毎夏、軽井沢で過ごす。 | 『性に目覚める頃』『結婚の手記』『寂しき都会『蒼白き巣窟』 | 国際連盟に加盟 | ||
十年 | 一九二一 | 三十二歳 | 三月、田端五百二十三番地に転居。五月六日、長男出生、豹太郎と命名。溺愛する。 | 『古き毒草園』『美しき氷河』 | |||
十一年 | 一九二二 | 三十三歳 | 六月二十四日、長男豹太郎死去。愛児の死に大きな衝撃を受ける。八月三日、犀川大洪水。観測所開所以来の降雨。雨宝院の敷地も一部失う。十二月、『忘春詩集』京文社より刊行。初めて自分で装幀をする。 | 『星より来れるもの』『田舎の花』『忘春詩集』 | |||
十二年 | 一九二三 | 三十四歳 | 八月二十七日、駿河台、浜田病院にて、長女出生、朝子と命名。九月一日,関東大震災起きる。混乱の中、翌二日正午近く、避難中の妻子に再会。十月,家族と共に金沢に帰る。とみ子の生家に仮寓、数日後、上本多町御亭三十一番地に落ちつく。十二月、甥の小畠悌一、南花子と結婚、媒酌人をつとめる。 | 『青き魚を釣る人』 | 関東大震災 | ||
十三年 | 一九二四 | 三十五歳 | 二月、川岸町十二番地に転居。五月十五日、芥川龍之介、来沢。十九日まで滞在。兼六園内、三芳庵別荘に宿泊。 | 『高齢の花』 | |||
十四年 | 一九二五 | 三十六歳 | 四月、田端の旧居に移転。朔太郎も近所に転居して来る。毎日のように会う。六月、『漁眠洞随筆』新潮社より刊行。最初の随筆集。十二月、初めて徳田秋声を龍之介と森川町に家に訪ねる。 | 『漁眠洞随筆』 | 治安維持法公布ラジオ放送始まる | ||
十五年 | 一九二六 | 三十七歳 | 四月一日、『驢馬』創刊。犀星も寄稿。五月中旬から六月上旬まで金沢に滞在。天徳院の寺領を借り、庭作りに着手。九月十一日、次男出生、朝巳と命名。 | 大正天皇没、昭和と改元 | |||
昭和 | |||||||
二年 | 一九二七 | 三十八歳 | 四月二日、稲垣足穂来る。二日会のため秋声宅に同道。七月二十四日、龍之介、田端に自宅で自殺。龍之介の死に大きな衝撃を受ける。 | 『故郷図絵集』『庭を造る人』 | 上野・浅草間に初の地下鉄が開通
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三年 | 一九二八 | 三十九歳 | 四月二十八日、義母ハツ死去。電報を受け取り帰郷。七月、軽井沢へ。夏をすごす。九月十一日、金沢に発つ。庭作りに専念。十一月頃まで滞在。十一月、大森谷中に家を借りる | 『芭蕉襍記』『鶴』 | |||
四年 | 一九二九 | 四十歳 | 四月、『魚眠洞発句集』武蔵野書院より刊行。初めて句集。 | 『魚眠洞発句集』 | |||
六年 | 一九三一 | 四十二歳 | 七月十三日(推定)、軽井沢へ行く。軽井沢千百三十三番地に別荘を新築。以後、毎夏、この別荘で過ごすことになる。 | 満州事変 | |||
七年 | 一九三二 | 四十三歳 | 四月、大森区馬込町七百六十三番地に新築、転居。五月三日、徳田秋声宅を訪問。同日、秋声会を結成。七月『あらくれ』創刊。九月、詩集『鉄集』椎の木社より刊行。 | 『青い猿』『鉄集』 | 五・一五事件 | ||
九年 | 一九三四 | 四十五歳 | 七月、「あにいもうと」を『文芸春秋』に掲載。以後、いわゆる市川鬼ものといわれる小説が次々に発表される。八月、「詩よ君とお別れする」を『文芸』に発表。詩との訣別を宣言。 | 『文芸林泉』 | |||
十年 | 一九三五 | 四十六歳 | 一月、芥川賞選考委員となる。第十六回まで委員を続けた。一月,『神々のへど』山本書店より刊行。低迷期からの復活を決定づける。七月、「あにいもうと」により第一回文芸懇話会賞受賞。 | 『神々のへど』『哀猿記』『女の図』『復習』 | |||
十一年 | 一九三六 | 四十七歳 | 六月、「あにいもうと」PCLで映画化。日本劇場で封切り。九月、『室生犀星全集』非凡閣より刊行。十三巻、別巻一巻。 | 『聖処女『弄獅子』 | 二・二六事件 | ||
十二年 | 一九三七 | 四十八歳 | 四月十八日、夜行で満州(中国)、朝鮮に発つ、生涯唯一の海外旅行。 | 『駱駝行』 | 日中戦争 | ||
十三年 | 一九三八 | 四十九歳 | 四月十七日、堀辰雄、加藤多恵子と結婚、媒酌をする。晩春、徳田秋声と鎌倉に小杉天外を訪問。十一月十三日、妻とみ子、脳溢血で倒れる。 | 『大陸の琴『作家の手記』 | 国家総動員法公布 | ||
十四年 | 一九三九 | 五十歳 | 三月二十九日、立原道造死去。九月十日、泉鏡花の告別式に行く。鏡花は七日に死去。十月十三日、萩原朔太郎と水戸高等学校で講演する。 | 『つくしこひしの歌』 | 第二次世界大戦 | ||
十五年 | 一九四〇 | 五十一歳 | 十一月、「萩吹く歌」を『婦人之友』に発表。いわゆる王朝ものの第一作。 | 『美しからざれば哀しからんに』『戦死』 | |||
十六年 | 一九四一 | 五十二歳 | 三月、菊池寛賞(第三回)『戦死』にて受賞。三月、金沢に帰る。十五日、尾山倶楽部で「文学者と郷土」と題して講演、ラジオで中継放送される。数日間滞在。これが生涯最後の帰郷となった。
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『蝶・故山』『王朝』『甚吉記』 | 太平洋戦争 | ||
十七年 | 一九四二 | 五十三歳 | 五月十一日、萩原朔太郎死去。五月十五日、佐藤惣之助死去。朔太郎、惣之助の作品集の刊行を決意する。十一月二日、北原白秋死去。 | 『泥雀の歌』『虫寺の歌』『残雪』 | |||
十八年 | 一九四三 | 五十四歳 | 春、庭に防空壕を掘る。とみ子、枝をついて家の中を歩けるようになる。三月、『萩原朔太郎全集』小学館より刊行。監修の一人となる。十一月十八日、徳田秋声死去。 | 『山の動物』『萩の帖』『日本美論』 | |||
十九年 | 一九四四 | 五十五歳 | 三月三十日、『佐藤惣之助集』三巻を編集、桜井書店より刊行。六月二十七日、津村信夫死去。七月下旬、家族を軽井沢に疎開、一人自炊生活。八月中旬、軽井沢に発つ。 | 『金花』 | |||
二十年 | 一九四五 | 五十六歳 | 三月十三日、兄、小畠生種死去。 | 『山吹』 | 太平洋戦争終わる | ||
二十一年 | 一九四六 | 五十七歳 | 日本国憲法公布 | ||||
二十三年 | 一九四八 | 五十九歳 | 四月七日、徳田一穂来る。徳田秋声の年譜、依頼される。八日に書く。八月三十一日、日本芸術院会員の辞令を受ける。十一月一日、朝子、青木和夫と結婚。つるやにて挙式。正宗白鳥媒酌、堀多恵子ら十三名列席。 | 『みえ』『童笛を吹けども』『氷つた女』 | |||
二十四年 | 一九四九 | 六十歳 | 九月二十二日、厳寒の冬を五度迎えた。妻とみ子は軽井沢での疎開生活を切りあげる。 |
『泥孔雀』 | 湯川秀樹ノーベル賞受賞 | ||
二十七年 | 一九五二 | 六十三歳 | 九月、母校の金沢市立野町小学校の創立八十周年記念に校歌を作詞する。 | ||||
二十八年 | 一九五三 | 六十四歳 | 五月二十八日、堀辰雄死去。六月三日、告別式に参列、追悼の辞を読む。 | NHKテレビ放送開始 | |||
二十九年 | 一九五四 | 六十五歳 | 八月、「あにいもうと」大映で再映画化。 | ||||
三十年 | 一九五五 | 六十六歳 | 五月、「性に眼覚める頃」を「麦笛」と改題して東宝で映画化。一月、「女ひと」を『新潮』に連載開始。長い沈滞期を抜けだす大きな転機となった。二月二十八日、『黒髪の書』新潮社より刊行。久しぶりの単行本刊行。 | 『黒髪の書』『随筆 女ひと』 | |||
三十一年 | 一八五六 | 六十七歳 | 五月、「舌を噛み切った女」上演。「地獄花」と改題して大映で映画化。十一月十九日、「杏つ子」を『東京新聞』に連載開始。 | 『舌を噛み切った女』『随筆 続女ひと』『三人の女』 | 日ソ共同声明「もはや戦後ではない」が流行語になる | ||
三十三年 | 一九五八 | 六十九歳 | 一月、読売文学賞(小説賞)『杏つ子』にて受賞。四月、『杏つ子』東宝で映画化。 | 『杏つ子』(昭和三十二年)『我が愛する詩人の伝記』 | |||
三十四年 | 一九五九 | 七十歳 | 十月十八日、妻とみ子死去。十一月、毎日出版文化賞『我が愛する詩人の伝記』にて受賞。十二月、野間文芸賞『かげろうふの日記遺文』にて受賞。 | 『遠野集』『昨日いらつして下さい』『蜜のあはれ』『かげろふの日記遺文』 | |||
三十五年 | 一九六〇 | 七十一歳 | 三月五日、『とみ子発句集』百部刊行。六月末、軽井沢に発つ。滞在中に、文学碑建立の土地を選定する。十一月十五日、「室生犀星詩人賞」設定。第一回は滝口雅子に授賞。 | 『火の魚』『告ぐるうた』『二面の人』 | 池田内閣、所得倍増計画発表 | ||
三十六年 | 一九六一 | 七十二歳 | 五月二十四日、初孫誕生、朝巳の長女。州々と命名。十月六日、虎の門病院に入院。十七日、主治医より、長女朝子に犀星の肺癌の宣告がされた。十月二十三日、「私の履歴書」執筆始める。退院までに脱稿。十一月八日退院。十二月十二日(十日)、第二回室生犀星詩人賞は、富岡多恵子、辻井喬に授賞。 |
『黄金の針』『草・簪・沼』 | |||
三十七年 | 一九六二 | 七十三歳 | 二月二十五日、詩「老いたるえびのうた」を『婦人之友』に渡す。三月一日。虎の門病院に再入院。三月十日、『室生犀星全詩集』筑摩書房より刊行。三月二十六日、死去。二十九日、告別式。葬儀委員長、中野重治。五月、未完の「好色」が『小説中央公論』に掲載される。 | 『はるあはれ』『われはうたへどもやぶれかぶれ』『宿なしまり子』『好色』 | |||
三十八年 | 一九六三 | 十月、金沢市野田山墓地に埋葬される。 | |||||
三十九年 | 一九六四 | 五月、金沢市中川除町に文学碑建立。 | |||||
室生犀星記念館図録より |
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編集・さつち |