徳田秋聲 【とくだ しゅうせい】 明治4年(1871)〜 |
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石川県金沢市横山町に、加賀藩の家老横山三左衛門の家中雲平を父とし、前田家直臣津田采女の三女で三度目
の継妻を母として生まれました。複雑な家庭、ひよわな生い立ち、家計の窮迫からくる劣等意識がその消極的ともいえる人生観の元となり、後年の作品の底流になっているといえます。 私小説の画期的傑作とされている「足跡」(明治43年)「黴」(明治44年)により、日本自然主義文学盛行の中で文壇的地位を確立します。彼の全作品の集大成であり、帰結でもあった「縮図」(昭和16年)は未完とはいえ、日本近代小説の一角を代表する傑作とよべます。 その後昭和18年、肋膜癌のために、明治39年以来住みなれ無数の作品を書き続けた本郷区森川町の書斎で亡くなります。秋声の名は、元々宋の欧陽修「秋声賦」から来た季題「秋の声・秋声」によるものとされています。 【いいねっと金沢より】http://www.city.kanazawa.ishikawa.jp/ |
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徳田秋聲年譜 | ||||||
一 幼少期そして青春の彷徨 (明治四年〜同二十七年) |
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明治/西暦 | 年齢 | 事柄 |
主な作品 | 社会事象 | ||
四年 一八七一 |
一歳 | 十二月二十三日、金沢県金沢町第四区(当時はまだ「金沢県」。石川県となるのは翌五年、金沢市となるのが明治二十二年)横山町二番丁一番地(現・横山町五−九)に生まれる。名は末雄。徳田雲平の三男、六番目の子であった。雲平は加賀藩の家老横山三左衛門の家人徳田十右衛門(七十石)の長子。母タケは、前田家の直臣梅田采女(味噌蔵町/現兼六元町、四百石)の三女で、雲平の四度目の妻。先妻に長姉しづ、長兄直松、次兄順太郎、次姉きん、同母に三姉かをりがいた。維新後、家計は困窮、家族構成も複雑であったため、一旦は里子に出されることになったが、父が不憫がってとりやめた、と後にきかされた。 | 戸籍法公布 廃藩置県 |
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六年 一八七三 |
三歳 | 歴改正で明治五年十二月三日が明治六年一月一日となり、最初の誕生日を迎えることなく、歳を加えた。なお、秋声は生涯をとおして十二月二十三日を誕生日とし、年齢は数えを用いたので、それに従う。 | 太陽歴実施 | |||
七年 一八七四 |
四歳 | 浅野町(現・小橋町/詳細不明)に転居。病弱で、父につれられ病院通いを続ける。 | 金沢大博覧会成巽閣で化幕 旧金沢藩士一万四千余人が家禄処分を受ける(明治九年) |
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十年 一八七七 |
七歳 | 四月十四日、次姉が太田為之と再婚。後に為之から英語の手ほどきを受ける。 | 西南戦争 | |||
十一年 一八七八 |
八歳 | 士族への金禄公債の交付が始まり、金沢では「黄金の洪水」と言われる消費ブームが起こり、芝居小屋や待合が栄える。 | ||||
十二年 一八七九 |
九歳 | 養成小学校(現・金沢市立馬場小学校)に発育不良で一年遅れ入学。姉かをりに送られ登校。一年後には泉鏡花が入学したが、知るに至らなかった。浅の川馬場芝居(明治四年に始まり同二十七、八年頃終焉)に親しみ始める。十二月十五日、妹フデ誕生。 | 全国的にコレラ大流行 | |||
十三年 一八八〇 |
十歳 | 九月十七日、姉かをりが依田政知と結婚。その弟と親しくなる。 | 横山家尾小屋鉱山の経営を始める |
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十五年 一八八二 |
十二歳 | 十二月二十三日、養成小学校中等科四年後期で原級留。前期は三十名中二十一番 | 金沢城焼失(明治十四年) | |||
十六年 一八八三 |
十三歳 | 初冬、御歩町二番丁十四番地(現・東山一丁目二十一〜二十六)に転居。十二月二十四日、養成小学校中等科四年後期を卒業、二十七名中五番であった。 | 鹿鳴館が開館 | |||
十七年 一八八四 |
十四歳 | 金沢区高等小学校(現・金沢市小将町中学校)に入学。六月、味噌蔵町裏丁五番地ノ二(現・兼六元町九-五十三)に転居。 | ||||
十八年 一八八五 |
十五歳 | 四月、長兄直松が弁護士の試験に失敗、大阪へ出て警察官となる。養子として家を出ていた次兄順太郎は旧横山家経営の尾小屋鉱山(現小松市内)の技師になる。 | 現友社結成 | |||
十九年 一八八六 |
十六歳 | 春、石川県専門学校に入学。馬場五番丁十四番地(現・東山三丁目三十六)の太田方(きんの婚家)に両親と妹の四人で移る。家計いよいよ苦しくなる。読書欲が盛んになり、直松が残していった書物や、友人、貸本屋から借りて乱読。 | 県内にコレラ流行 |
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二十一年 一八八八 |
十八歳 | 四月、第四高等中学校(旧制第四高等学校の前身)補充科に入学。試験場で鏡花を見かけたが、彼は入学できず。読書熱がたかまり、漢籍から日本古典に親しむ一方。逍遥『当世書生気質』や四迷『浮雲』、教室ではディケンズ、スコット、リットンなどに興味を持つ。級友小倉正恒(後に大蔵大臣)らと回覧雑誌を出す。 | 第四高等中学校創立(明治二十年)市制町村制公布 | |||
二十二年 一八八九 |
十九歳 | 夏、上級の佐垣帰一から、「小説家になると可いがね」と言われる。 | 大日本帝国憲法法公布 | |||
二十三年 一八九〇 |
二十歳 | 桐生悠々との交友が親密になり、回覧雑誌を出す。黙阿弥の作や饗庭篁村『むらたけ』を愛読する。七月、代数と幾何が欠点で落第 | 韓国併合 | |||
二十四年 一八九一 |
二十一歳 | 七月、再履修で及第するが、学業意欲わかず。十月十九日、父雲平が脳溢血で死去。同月、第四高等中学校を中退。作家として立つことを考える。 | 金沢で大雪、最深三八六センチ | |||
二十五年 一八九二 |
二十二歳 | 三月末、雪のちらつく朝、桐生悠々と上京。尾崎紅葉を牛込横寺町に訪ねるが、玄関番の泉鏡花に不在と告げられる。原稿を郵送したが、「柿も青いうちは鴉も突つき不申候」という添状とともに返される。悠々は帰郷して復学、秋声は直松から送金を受け大阪へ行き、直松の下宿に寄食する。 | 関東で天然痘が流行 | |||
二十六年 一八九三 |
二十三歳 | 一月、投稿した「ふヾき」が「葦分舟」に掲載されたが、中断。四月、金沢へ帰郷。御歩町の借家にいた母の許に身を寄せ、復学をめざす。九月末、自由党機関紙「北陸自由新聞」社に出入りして渋谷黙庵を知る。秋声の筆名を使い始める。 | 北國新聞第一号葉発刊第四高等中学校が改称され、第四高等学校誕生 | |||
二十七年 一八九四 |
二十四歳 | 四月、第四高等中学校の補欠入試を受けたが、一日で、放棄、長岡の「平等新聞」主筆に転じていた黙庵の誘いをうけ、長岡で記者勤め。 | 日清戦争(一八九四〜九五) | |||
二 紅葉門下からの出発 (明治二十八年〜同三十九年) |
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二十八年 一八九五 |
二十五歳 | 一月一日、長岡を発ち上京。「北陸自由新聞」当時の同僚の世話で、芝愛宕下の電信学校予備校に住み込み、英語を教える。四月、黙庵の仲介で代議士の小金井権三郎の紹介状を貰い、博文館に住み込み、校正やルビを振る。博文館に出入りする鏡花に奨められ、紅葉を訪ね門下となる。 | 大阪で初めて活動写真興行 | |||
二十九年 一八九六 |
二十六歳 | 八月、博文館の大橋乙羽の計らいで「藪かうじ」を「文芸倶楽部」に発表、「めざまし草」の月評欄「雲中語」で採り上げられ、文壇的処女作となる。博文館を辞め、年末に9紅葉宅裏の十千万堂塾に入り、小栗風葉、柳川春葉と三人で共同生活。やがて田中涼葉、中山白峰、泉斜汀らが加わる。田山花袋らが尋ねて来る。三島霜川ら文学仲間が増える。 | 「藪かうじ」 | |||
三十年 一八九七 |
二十七歳 | 紅葉と補付記された作品を、新聞、雑誌に発表 | ||||
三十一年 一八九八 |
二十八歳 | 紅葉の指示で、長田秋涛の翻訳、翻案を手伝う。 | 金沢駅開業 | |||
三十二年 一八九九 |
二十九歳 | 二月、十千万堂塾が解散。単独名で意欲作を発表。十二月、紅葉の世話で讀賣新聞社に、入り、美文雑報を担当。同僚に上司小剣、山岸荷葉ら。 | 「河浪」 「惰けもの」 |
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三三年 一九〇〇 |
三十歳 | 八月、「雲のゆくへ」を「讀賣新聞」に連載、好評を博して文壇的出生作となる。胃腸が悪く、必死の思いで執筆した。牛門の四天王と言われるようになる。 | 「雲のゆくへ」 | 治安警察法公布 金沢電気株式会社送電を開始 |
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三十四年 一九〇一 |
三十一歳 | 四月末、讀賣新聞社を退社。十月から「讀賣新聞」に「後の恋」を連載。新声社から書き下ろし長編の出版も決まり、年末に大阪の直松のもとへ。 | 「後の恋」 | 金沢で市内電話が開通 | ||
三十五年 一九〇二 |
三十二歳 | 「驕慢児」を新声社から刊行。直松の妻の奨めで別府へ行き、長期滞在。「文芸界」編集長から巻頭小説の依頼があり、帰京、「春光」を書く・借家に三島霜川と同居。手伝いの老女を雇うが、その娘はま(長野県上伊奈都出身、明治十四年生まれ)が出入り、やがて関係ができ、実際上の夫婦生活が始まる。 | 「驕慢児」 「春光」 |
日英同盟締結 | ||
三十六年 一九〇三 |
三十三歳 | 紅葉だ胃癌を病み、医療費捻出のため、ユーゴ「ノートルダム・ド・パリ」(訳題「鐘楼守」)の翻訳の文飾に従事、収入が減少、はまが妊娠、生活に苦しむ。七月頃、長男一穂が生まれるが、正式に結婚する決心がつかず、逡巡を続ける。十月三十日、紅葉が死去。 | 「臨終」 「弱き罪」 |
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三十七年 一九四〇 |
三十四歳 | 仕事が少しずつふえる。三月十六日、小浜はまを婚姻入籍。日露戦争が始まり、従軍記者になろうとするが、友人に説得され断念。十二月、「少華族」を「万朝報」に連載。評判を呼ぶ。 | 「少華族」 | 日露戦争(一九〇四〜〇五) | ||
三十八年 一九〇五 |
三十五歳 | 五月、金沢市に帰省。七月、「わかき人」を「北國新聞」に連載。この頃、長女瑞子が誕生。九月。本郷座で、「少華族」を新派が上演。十二月、初の短編集『花たば』刊行 | 「暗涙」 「愚物」 |
日本海海戦 | ||
三十九年 一九〇六 |
三十六歳 | 「秘密の秘密」などを「北國新聞」に連載。ほかに「おのが縛」なども新聞連載、中堅作家としての地位を固める。五月、本郷区森川町一番地(現・文京区森川町六丁目六番九号)に転居、生涯の地となる。 | 「夜航路」 「おのが縛」 「奈落」 |
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三 自然主義文学の深化 (明治四十年〜大正五年) |
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四十年 一九〇七 |
三十七歳 | 「順運逆運」を「北國新聞」に連載するなど、連載が増えるとともに、代作がみられるようになる。六月十八日。西園寺公望首相の招宴(後雨声会)に出席。九月、知識人の群像を描いた意欲作「凋落」を「讀賣新聞」に連載。 | 「発奮」 「凋落」 |
足尾銅山で労働争議 | ||
四十一年 一九〇八 |
三十八歳 | 「二老婆」など優れた短編を書く。九月、短編集『秋声集』易風社刊、自然主義作家として認められる。同二十日、次男嚢二が誕生。十月、「新世帯」を「国民新聞に」連載。 | 「二老婆」 「出産」 「北國産」 「新世帯」 |
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四十二年 一九〇九 |
三十九歳 | 五月、子供達をつれ妻の郷里南信州を訪ねる。十一月、「二十四五」を「東京毎日新聞」に連載。 | 「四十女」 「二十四五」 |
伊藤博文暗殺 | ||
四十三年 一九一〇 |
四十歳 | 七月、「足跡」(後「足」)を「讀賣新聞」に連載、妻は一家が上京してからの苦難の日々を描く。 | 「足迹」 | 大逆事件 | ||
四十四年 一九一一 |
四十一歳 | 二月、『秋声叢書』博文館刊。三月二十五日、次女喜代子(戸籍名・喜代)が誕生。八月、「黴」を「東京朝日新聞」に連載、妻はまとの日常生活を突き放して描き、高い評価を受け、自然主義の代表的作家になる。 | 「黴」 | 青踏社発足 | ||
四十五年 大正元年 一九一二 |
四十二歳 | 単行本『薔薇』『足跡』を続けて新潮社から刊行、評価を一段と高める。好短篇「早寝」、「溝曳」を発表。 | 「早寝」 「媾曳」 |
明治天皇崩御、改元 | ||
二年 一九一三 |
四十三歳 | 二月五日、三男三作が誕生。三月、「たヾれ」(後に「爛」)を「国民新聞」に連載、最も爛熟した作。児童向け『めぐりあひ』実業之日本社刊。 | 「足袋の旅」 「爛」 |
金沢最初の活動写真常設間、菊水倶楽部会館 | ||
三年 一九一四 |
四十四歳 | 一月、讀賣新聞社に客員として復帰、紙面改革に参画、コラムなどに執筆。秋、痔の手術で約三週間入院。年末に客員から退く。 | 「都の女」 訳編「哀史」 |
第一次世界大戦(一九一四〜一八)に参戦 | ||
四年 一九一五 |
四十五歳 | 一月、「あらくれ」を「讀賣新聞」に連載。三月二十三日、四男雅彦が誕生。五月、金沢帰省、味噌蔵町裏丁の実姉依田かをりの家に約二十日間滞在、母と会った最後となる。 | 「あらくれ」 「戦話」 「奔流」 |
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五年 一九一六 |
四十六歳 | 七月十七日、長女瑞子が疫痢で死去、十二歳。九月、「犠牲者」(「中央公論」)で瑞子の死ぬまでを克明に描き、非情主義を言われる。十月二十九日、母タケが金沢市材木町五−十一で死去、七十六歳。金沢に駆けつけたものの死に会えなかった。 | 「犠牲者」 | |||
四 新しい読者と共に (大正六年〜同十四年) |
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六年 一九一七 |
四十七歳 | 一月、母の死を扱った「夜行列車」、「菊見」などを書く。二月、「誘惑」を「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に、四月には「秘めたる恋」を「婦人公論」に連載、通俗現代小説に意欲的に取組む。六月一日から歌舞伎座で「誘惑」を新派が上演。十日、日活映画「誘惑」(白黒無声)封切。七月には名古屋末広座でも「誘惑」が上演されるなど、人気を呼ぶ。 | 「菊見」 「彼女と少年」 「誘惑」 |
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七年 一九一八 |
四十八歳 | 『小説の作り方』『小説入門』『小品文作法』など啓蒙的著作を相次いで刊行。九月、通俗現代小説「路傍の花」を「時事新報」に連載、当時同紙記者であった菊池寛に依頼による。十二月十二日、三女百子(戸籍名・百々子)が誕生。この年、柳川春葉死去。 | 「花咲く頃」 「路傍の花」 |
シベリア出兵 | ||
八年 一九一九 |
四十九歳 | 二月、明治座で「路傍の花」を井上正夫らが上演。並行して本郷座でも新生劇団が上演。五月から「妹思ひ」を「やまと新聞」に、七月から「寂しき生命」を「讀賣新聞」にと、盛んに通俗小説を連載。 | 「妹思ひ」 | 金沢市内電車運転開始 島田清次郎「地上」がベストセラー | ||
九年 一九二〇 |
五十歳 | 五月、大阪に直松を訪ねる。十一月三日、田山花袋とともに生誕五十年祝賀会が開かれ、三十三人の作家から「現代小説選集」新潮社刊の印税を贈られる。心境小説「蒼白い月」などを書く。 | 「或売笑婦の話」 「蒼白い月」 「何処まで」 |
国際連盟に加盟 菊池寛「真珠夫人」が人気を呼ぶ | ||
十年 一九二一 |
五十一歳 | 一月、「呪咀」を「新家庭」に、「断崖」を「大阪朝日新聞」にと通俗小説を連載し。秋には、「前生涯」、「灰燼」と多くの連載を抱える。七月、菊池寛らと小説家協会を設立。九月、横浜座で「路傍の花」を新派第二軍が上演、ひき続き深川辰巳劇場で。松竹映画「断崖」(白黒無声)封切。十二月三日、長男直松、胃癌で死去、六十七歳。 | 「感傷的の事」 「断崖」 |
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十一年 一九二二 |
五十二歳 | 八月、「二つの道」を「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に連載。二十三日、妻はまの父小沢孝三郎死去、七十三歳。十月、亡母の七回忌で金沢へ。 | 「二つの道」 「郊外の聖」 |
兼六園が内務所から名勝に指定される。金沢測候所所開設以来の大雨で犀川、浅野川の橋梁流失。 | ||
十二年 一九二三 |
五十三歳 | 一月、大阪浪花座で「二つの道」を東京新派大合同で上演。翌月にかけ京都南座、東京本郷座でも上演。二月、松竹、「二つの道」(白黒無声)封切。三月「新潮」の座談会「創作合評」第一回に出席、盛んに出席する。四月、婦女誘拐事件を起こした同郷の島田清次郎を援護する。八月末、実姉かをりの長女冨の結婚式で金沢へ。九月一日、関東大震災で交通途絶。十二日ようやく帰京、自宅は、無事であった。十月、「掻き乱すもの」を「名古屋新聞」に連載。 | 「初冬の気分」 「お品とお島の立場」 「籠の小鳥」 「ファイヤ・ガン」 |
関東大震災 | ||
十三年 一九二四 |
五十四歳 | 一月、震災に取材、「不安のなかに」などを発表。三月、山田順子が原稿を携えて訪ねて来る。六月、名古屋新守座で「掻き乱すもの」を上演、宝生座で同盟鎖劇(映画と演劇を組み合わせ上演する形)を上演。八月、心境小説の代表策「風呂桶」を「改造」に。病臥中の次兄順太郎を見舞いに金沢へ。九月二十一日、妻はまの母小沢さちが秋声宅で死去、七十二歳。十二月、「蘇生」を「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」に連載。レコードを盛んに聴くようになる。 | 「乾いた唇」 「車掌夫婦の死」 「花が咲く」 「風呂桶」 |
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十四年 一九二五 |
五十五歳 | 三月、山田」順子『流るゝまゝに』聚芳閣刊に序を寄せる。五月、『籠の小鳥』文芸日本社刊。六月、大阪角座で「蘇生」を伊井蓉峰一座が上演。十二月、室生犀星が芥川龍之介に伴われ訪ねて来る。この年、島田清次郎を扱った「解嘲」を「日本」に連載。 | 「挿話」 「未解決のままに」 |
治安維持法公布 ラジオ放送始まる | ||
五 スキャンダルに抗して (大正十五年〜昭和七年) |
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十五年 昭和元年 一九二六 |
五十六歳 | 一月二日、妻はまが脳溢血で急死、四十六歳。数日後に山田順子が訪れ、身辺の世話を申し入れ、急速に、接近。十五日、小栗風葉が死去、豊橋での葬儀に参列。二月、妻の命日にちなんで「二日会」は発足。中村武羅夫、葛西善蔵、牧野信一、室生犀星、吉屋信子、岡栄一郎、藤沢清造、加能作次郎ら会員四十余人。後、「秋聲会」に。三月、順子との関係を扱った最初の作品「神経衰弱」を「中央公論」に。以降、順子ものと呼ばれる作品「子を取りに」「逃げた小鳥」「元の枝へ」など次々と発表。六月末と七月に順子の郷里本荘を訪ねる。 | 「倒れた花瓶」 「子を取りに」 「逃げた小鳥」 「元の枝へ」 |
大正天皇崩御、改元 日本放送協会設立 | ||
二年 一九二七 |
五十七歳 | 四月、順子は逗子に転居、慶大生と結婚と報じられるが、よりを戻す。八月、順子と秋に結婚との報道。十月、順子が秋聲宅を出て、結婚披露宴は取りやめ。大晦日の夜、順子とその娘を追い出し、関係に一応の終止符。しかし、以後もしばらく断続的に続く。 | 「春来る」 「暗夜」 |
芥川龍之介自殺 |
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三年 一九二八 |
五十八歳 | 一月、「土に癒ゆる」を「婦人公論」に連載。八月、三男三作、カリエスを病む。十一月、いわゆる円本の現代日本文学全集第十八篇『徳田秋聲集』改造社刊。 | 「土に癒ゆる」 | 初の普通選挙実施 | ||
四年 一九二九 |
五十九歳 | 一月、「月光曲」を「婦人公論」に連載。三作が入院。懸賞応募小説を執筆する順子をアパートにしばしば訪ねる。佐多稲子が順子の原稿を清書する。 | 「香奠を忘れる」 | 世界恐慌 | ||
五年 一九三〇 |
六十歳 | 二月、第二回普通選挙で石川県第一区から社会民衆党候補としての出馬要請があり、帰郷したが、党本部の了解が得られず、次兄正田順太郎の説得もあり、断念。三月、玉置真吉についてダンスを始める。五月十三日、田山花袋が死去。この頃から創作の筆をほとんど執らなくなる。 | JOJK金沢放送局放送開始 | |||
六年 一九三一 |
六十一歳 | 五月三十一日、三作が死去、十九歳。夏、白山の富島家から出ていた芸者、小林政子(明治三十六年生まれ)を知る。初秋、拓殖そよと関西」旅行、旧友小倉正恒(当時は住友総務)を訪ねる。十一月、「信濃毎日」の主筆桐生悠々のあっせんで「赤い花」を同紙に連載。三日、還暦祝賀会が東京会館で開かれる。友人知人らが秋聲後援会を組織する。 | 「赤いはな」 | 満州事変 | ||
七年 一九三二 |
六十二歳 | 五月三日、中村武羅夫、室生犀星、尾崎士郎、井伏鱒二、舟橋聖一、安部知二らが訪ねて来て「秋聲会」(後の「あらくれ会」)発足。七月、秋聲会機関誌「あらくれ」創刊。秋聲宅が発行所で長男一穂が編集担当。夏、政子が書斎で寝起きする。八月二十五日、」次姉太田きん死去、七十一秋、自宅庭にアパート。フジハウスの建築始める。 | 満州国が成立 五・一五事件 |
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六 「市井」からの凝視 (昭和八年〜同十八年) |
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八年 一九三三 |
六十三歳 | 三月、「町の踊り場」を「経済往来」に発表、好評で迎えられ、創作活動を再開。三十一日、施工したばかりのフジハウスで泉斜汀が急死、兄の鏡花と和解。七月、学芸自由同盟会長に就任。十一月、政子が徳田家を出て白山に戻り、翌年十二月に芸妓屋富田家を開業、以後、そこで過ごすことが多くなる。 | 「町の踊り場」 「和解」 「死を親しむ」 |
国際連盟を脱退 | ||
九年 一九三四 |
六十四歳 | 二月、雑誌「あらくれ」を月刊に、翌九月まで刊行。四月、「一つの好み」を「中央公論」に政子を本格的に扱った最初の作。以降、政子もの「一茎の花」などを書く。七月、短編集『町の踊り場』改造社刊。病臥の次兄順太郎を金沢に見舞い。政子を呼び寄せ、山代温泉に泊まる。 | 「金庫小話」 「一茎に花」 |
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十年 一九三五 |
六十五歳 | 七月、「仮装人物を」を「経済往来」(のち「日本評論」)に連載開始、途中、病気などで、幾度か休載。十二月、雑誌「あらくれ」発行を秋聲会に戻し、刊行再開。 | 「チビの魂」 「勲章」 |
芥川賞・直木賞創設 | ||
十一年 一九三六 |
六十六歳 | 二月二十六日(二・二六事件当日)次女喜代子が寺崎浩と結婚。四月十日、頸動脈中層炎で倒れ、一時は危ぶまれる。七月、健康を回復、執筆再開。短編集『勲章』により第二文芸懇話会賞。二十六日、次兄順太郎が死去、七十八歳。十月、「秋聲全集」全十四巻別冊一巻を非凡閣から刊行開始、翌年十二月完結。文学者有志から、「文壇出世作全集」中央公論刊の印税を贈られる。十二月、新橋演舞場で「勲章」を新国劇で上演。 | 二・二六事件 | |||
十二年 一九三七 |
六十七歳 | 六月、帝国芸術院の開設にともない、同会員になる。九月、休刊していた雑誌「あらくれ」が女性同人編集で、発行元はあらくれ会と改称、月刊となる。十二月五日、長男一穂が池尻政子と結婚。 | 「生きた煩悩」 「仮装人物」 |
日中戦争始まる | ||
十三年 一九三八 |
六十八歳 | 一月、自伝的小説「光を追うて」を「婦人之友」に連載。七月、初の随筆集『灰皿』砂子屋書房刊。八月、「仮装人物」完結。十一月、雑誌「あらくれ」終刊。 | 「光を追うて」 「仮装人物」 |
国家総動員法公布 | ||
十四年 一九三九 |
六十九歳 | 三月、前年十二月出版された『仮装人物』(中央公論社刊)により第一回菊池賞を受ける。この頃、臀部にはれものができ、順天堂病院に入院、手術。九月七日、泉鏡花が死去、六十七歳。 | 第二次世界大戦(一九三九〜四五) | |||
十五年 一九四〇 |
七十歳 | 一月、政子が抱える芸妓の件で調停裁判ね同行、以後たびたび出向く。三月三日、野口富士男の結婚式に一穂と出席。七月、旧友小倉正恒が国務大臣(翌年には大蔵大臣)に。十月十七日、実姉依田かをり死去、七十五歳。 | 「西の旅」 「浴泉記」 |
日独三国同盟 金沢で積雪二メートルの大雪 | ||
十六年 一九四一 |
七十一歳 | 一月、「喰われた芸術」を「中央公論」に発表、最後の短篇となった。六月、「縮図」を「都新聞」に二十八日から連載、情報局の干渉により九月十五日中絶。短編集『西の旅』報國社が発売禁止に。十日、桐生悠々が死去、六十九歳。十一月、喜代子の夫寺崎浩が徴用され、南太平洋方面へ。十二月、金沢へ行き、卒業した小学校を訪ね、児童に話す。八日、白山、の二階で大東亜戦争(太平洋戦争)が始まったのを知る。 | 「縮図」 | 太平洋戦争(一九四一〜四五) | ||
十七年 一九四二 |
七十二歳 | 二月、石川県文化振興会顧問として金沢に行き、講演。五月十四日、実妹家門フデが死去、六十四歳。二十六日、日本文学報國会が結成され、小説部会長に就任。七月下旬に北海道旅行へ一穂、百子と出たが、健康がすぐれず、札幌から、帰る。八月十六日、三代名作全集「徳田秋聲集」のあとがきを徹夜で執筆したあと、吐血。この年、「古里の雪」(未完)を執筆。 | ||||
十八年 一九四三 |
七十三歳 | 五月、百子が結婚、福井での式に健康がすぐれず欠席。六月、一穂と千葉県御宿に旅行。七月、随想「病床にて」を口述、校正刷りに手を加えたが、これが絶筆となった。八月、東大病院に入院、肋膜癌と診断される。十月二十二日、退院し自宅で療養。十一月十八日午前四時二十五分永眠、七十一年と九ヶ月余の生涯であった。二十一日、青山斎場で日本文学報國会小説部会葬。葬儀委員長は菊池寛、中村武羅夫。戒名、徳本院文章秋聲居士。 | 「寒の薔薇」 | 県下の私鉄七社を統合して北陸鉄道株式会社を設立 | ||
徳田秋聲記念館図録より |
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編集・さつち |
全集・選集目録 |
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秋声傑作集 |
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全2巻 新潮社 | 第1巻 | 黴 足迹 | ||
第2巻 | あらくれ 奔流 | |||
1920/11〜1921/05 |
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秋声全集 | ||||
全14巻・別冊1巻 | 第1巻 | 雲のゆくへ 薮かうじ 情けもの 春光 桎梏 前夫人 | ||
非凡閣 | ||||
第2巻 | 足袋の底 出産 数奇 四十女 北国産 晩酌 日向ぼっこ さびれ 入院の一夜 糟谷氏 大祭日 旧知 リボン 犠牲 二老婆 小軋轢 診察 背負揚 小問題 媾曳 痛み 新芽 別室 山の手 二人 下宿屋 死後 出京 指環 | |||
第3巻 | 黴 足跡 爛 | |||
第4巻 | あらくれ 奔流 | |||
第5巻 | 或売春婦の話 蒼白い月 復讐 彼の失策 死の執着 宇治の一日 好奇心 犠牲者 悲しみの後 陰影 勝敗 棄てられた女 離るゝ心 ヂゴマ頭巾 電柱 「梅」を買う 膿 娶 | |||
第6巻 | 花が吹く 風呂桶 未解決のまゝ 篭の小鳥 挿話 不安のなかに 余震の一夜 「フアイヤガン」 車掌夫婦の死 お品とお島の立場 卒業間際 勉吉の打算 初冬の気分 感傷的の事 きのこ 倒れた花瓶 病人騒ぎ 乾いた唇 質草 鼻 恥辱 | |||
第7巻 | 元の枝へ 春来る 白木蓮の咲く頃 間 水ぎわの家 質物 時は過ぎたり 女流作家 ペトロンを捜す女 決しかねる 湖のほとり 解嘲 新世帯 | |||
第8巻 | 勲章 チビの魂 二つの現象 彼女達の身の上 町の踊り場 食卓小話 一つの好み 一茎の花 稲妻 裸像 死に親しむ 部屋解消 和解 白い足袋の思い出 目の暈 霧 牡蛎雑炊と芋棒 旅日記 青い風 老若 浪の音 彷徨へる | |||
第9巻 | 何処まで 無駄道 | |||
第10巻 | 戦時風景 のらもの 生きた煩悩 蟹 ダイヤとおたよ 二人の病人 微笑の渦 和む 犬を逐ふ 墓ある夜 逃げた小鳥 歯痛 子を取りに 折鞄 黒い幕 鼻 暑さに喘ぐ 芭蕉と歯朶 神経衰弱 随筆(「夜明け前」読後の印象 小説と映画 映画について 映画偶感 煙草から酒から 私と避暑 竈の火・暖炉の火 大島の一夜 雑草 ストウヴと派出婦 娘の結婚 結婚余談) 大学界隅 | |||
第11巻 | 秘めたる恋 結婚まで | |||
第12巻 | 路傍の花 | |||
第13巻 | 断崖 | |||
第14巻 | 黄昏の薔薇 恋愛放浪 | |||
別冊1巻 | 灰皿 雑音・雑筆帖 感想 心境断片 思ひ出るまゝ (細目) 秋声作品年表及年譜 | |||
1936/11〜1937/12 |
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